
あゝ、荒野
角川文庫
寺山 修司 / 鈴木 成一
2009年2月25日
KADOKAWA
792円(税込)
小説・エッセイ / 文庫
60年代の新宿。家出してボクサーになった”バリカン”こと二木建二と、ライバル新宿新次との青春を軸に、セックス好きの曽根芳子ら多彩な人物で繰り広げられる、ネオンの荒野の人間模様。寺山唯一の長編小説。
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(無題)
2017年公開の菅田将暉とヤン・イクチュンのW主演の映画『あゝ、荒野』の原作本が、寺山修司唯一の長編小説だと知り、迷わず手に取りました。 映画は、綺麗ごとでは済まされない現実を、暴力的といえる様々な要素を盛り込んだ設定の中で、俳優陣たちがリアルに演じた前後篇5時間の大作でしたが、それ故メッセージも多く、物語の収拾の仕方や解釈に考え込まされ、それがまた魅力の一つでもある作品でした。 原作の結末はまさに映画と同じですし、映画の背骨になったと思われる「誰かに責任をのこして、そいつとの結びつきのなかで死にたい」というメッセージもしっかり書かれているのですが、印象は少し違っています。当時流行の歌謡曲の一節や小説や詩のフレーズなどを散りばめられた原作は、あとがきにも「登場人物がどう動いてゆくか」を「即興描写で埋めて」いったとあるように、寺山自身が流れの中で登場人物を自由に動かし、私たち人間(読者)の、「荒野」(という現実)に生きるナマの感覚を呼び覚まそうとしているかのように感じました。映画では驚きで受けたとめた結末が、原作ではよりもの哀しいものに感じられたのも、呼び覚まされたナマの感覚のせいかもしれません。また、各章の初めにおかれた寺山修司の短歌も象徴的で、ストーリーとの距離感が絶妙です。 映画ならではの、登場人物の設定の変更や、作り込まれたエピソードの数々は、岸善幸監督が原作から受けとったナマの感覚で解釈し生み出された新しい「荒野」の世界だったのだな、と改めて感じました。
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届かない愛情
孤独をぶち破れ!!】 少年院あがり、自分を捨てた母親を憎む、新次。 吃音で、赤面対人恐怖症、の、バリカンこと健二。 原作では1966年の新宿が舞台。映画では2021年、新宿が舞台。かつて振り込め詐欺に手を染め、少年院を出たばかりの新次は、兄と慕っていた先輩を半身不随に追い込んだ元仲間に殴り込みをかけるが、逆に今はプロボクサーとなった相手に強烈な一撃を喰らう。倒れ込んだ新次に手を差し伸べたのが、たまたま近くに居合わせた健二だった。その様子を目撃していた元ボクサーの堀口(原作では片目)は、新次と健二を自分が運営するボクシングジムに誘う。やがて二人はプロテストに合格し、互いを高め合うが…。 同じボクシングジムにいた頃、バリカンは常に二番だった。 自分は二番目としてしか生きられない。 そんな男から見た「一番目」の男(新次)までの距離は、 思いがけないほど遠いものだった。 「見えないから届かない」 「手が届いているのにつかんでいる実感がない」 そんな感じだった。 だから離れた。 離れて新次と闘いたいと思った。 ライバルにして同志である新次。 彼を憎まなければ・・・勝てない。。。 試合のゴングが鳴り、撃ち合う二人。 バリカンのそれは、「話しかけるボクシング」だった。 拒絶されても拒絶されてもなお「話かける」ように。 前のめりに顔を突き出していく。新次のパンチが続く。 自分は打ち返せない。 ああ、憎むことができなかった。 ああ、俺はちゃんとここにいるんだ。 だから、だから、だれもどこへも行かないで。 愛するために愛されたい。。 リングの上でしのぎを削るうち、二人の関係性はより複雑で混沌になっていく。二人のいくすえは・・・。
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(無題)
2017年公開の菅田将暉とヤン・イクチュンのW主演の映画『あゝ、荒野』の原作本が、寺山修司唯一の長編小説だと知り、迷わず手に取りました。 映画は、綺麗ごとでは済まされない現実を、暴力的といえる様々な要素を盛り込んだ設定の中で、俳優陣たちがリアルに演じた前後篇5時間の大作でしたが、それ故メッセージも多く、物語の収拾の仕方や解釈に考え込まされ、それがまた魅力の一つでもある作品でした。 原作の結末はまさに映画と同じですし、映画の背骨になったと思われる「誰かに責任をのこして、そいつとの結びつきのなかで死にたい」というメッセージもしっかり書かれているのですが、印象は少し違っています。当時流行の歌謡曲の一節や小説や詩のフレーズなどを散りばめられた原作は、あとがきにも「登場人物がどう動いてゆくか」を「即興描写で埋めて」いったとあるように、寺山自身が流れの中で登場人物を自由に動かし、私たち人間(読者)の、「荒野」(という現実)に生きるナマの感覚を呼び覚まそうとしているかのように感じました。映画では驚きで受けたとめた結末が、原作ではよりもの哀しいものに感じられたのも、呼び覚まされたナマの感覚のせいかもしれません。また、各章の初めにおかれた寺山修司の短歌も象徴的で、ストーリーとの距離感が絶妙です。 映画ならではの、登場人物の設定の変更や、作り込まれたエピソードの数々は、岸善幸監督が原作から受けとったナマの感覚で解釈し生み出された新しい「荒野」の世界だったのだな、と改めて感じました。
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