親鸞 下

五木 寛之

2009年12月31日

講談社

1,650円(税込)

小説・エッセイ

極悪人も本当に救われるのか?!愛と暴力、罪と罰に苦しみながら、時代の激流に挑む青年の魂の彷徨。

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3.1 2018年01月27日

宗教者は時として奇跡を現じたり何らかの啓示を受けるものであるが、親鸞の場合は、29歳の時に聖徳太子からの啓示が生涯を決めたようだ。本書によると、聖徳太子の建立とされる六角堂へ百日参籠を行う。そして95日目の暁の夢中に、聖徳太子が示現され 「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」 「修行者が前世の因縁によって女性と一緒になるならば、私が女性となりましょう。そして清らかな生涯を全うし、命が終わるときは導いて極楽に生まれさせよう」 と描かれている。 このことがあってから、範宴は全てを捨てた。文字通りの全てである。知識も学問も修行も何もかもである。叡山の僧侶で無くなるという事は、姿は僧侶であっても社会的身分は極めて低いものとなる。現代のような破戒坊主ばかりの世の中とは違うのだ。その後法然上人の草庵に通い出し、法然の人格にうたれる。今まで信じられなかった仏の存在を法然のカリスマ性に接して、確信するようになる。百日聞法ののち、範宴は法然に弟子入りを許される。名前を範宴から綽空(しゃっくう)と変えてから彼は法然の「妻帯した方が専心念仏しやすければ妻帯すれば良い」との言葉を信じて妻帯する。法然門下となって四年、綽空は門外不出の選択本願念仏集の書写を許された。そして師法然から善信(ぜんしん)の名を与えられた。そして越後に流刑となる時に親鸞に変える。

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