親鸞 激動篇 下
五木 寛之
2012年1月31日
講談社
1,650円(税込)
小説・エッセイ
陰謀、因習、騒乱。しがらみの中で生き抜く、関東の人々の姿。かつて描かれたことのない中世の真実が、いま明かされる!全国44紙・世界最大規模の新聞連載、ついに単行本化。
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(無題)
陽射しが強くなり、雪が解け出せば北国越後の草木は一斉に芽吹き始める。親鸞が流人としてこの地を踏んでから六度目の春が巡ってきた。今親鸞は越後を後にして常陸を目指そうとしていた。新天地での布教を考えていたのだ。しかしながら、前途は決して明るいものではなかった。何故なら、親鸞は死を目前にした病人たちから念仏で病は治るか、と尋ねられれば「よくなることはない」と答える。子を売らねば生きていけない貧困にあえぐ人々から念仏すれば暮らしが楽になるか、と問われ「いいえ」と答える親鸞だ。日照りの時に念仏で雨を降らせてくれと懇願されても「できない」と明言する。「怪力乱神を語らず」、人間を超える能力を否定し、不合理な現象を認めない正直な人間が親鸞だ。 ところが人々が宗教に求めるものは今も昔も現世利益である。超常現象を期待していると言っても良い。親鸞が人々に語ろうとしている純化した専修念仏は到底理解されなかったであろう。まして土着の迷信が生活の隅々にあり、加持祈祷に頼っている底辺層の人々のことだ。念仏により死後浄土に導かれるというきわめて抽象的概念を理解させようとする布教活動が容易なものではないことは推測がつくところだ。親鸞の布教旅は、著者五木の阿弥陀如来を求めての心の旅でもあったことを強く感じた下巻であった。
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