愚者よ、お前がいなくなって淋しくてたまらない
伊集院静
2014年4月30日
集英社
1,760円(税込)
小説・エッセイ
ひとり、またひとりと去っていった友よ。無駄死には、させない。不器用な男たちの愛おしいほど切ない絆。ベストセラー『いねむり先生』と同時代に紡がれた、小説家伊集院静、もうひとつの「再生」の物語。
本棚に登録&レビュー
みんなの評価(2)
starstarstar
読みたい
0
未読
0
読書中
0
既読
11
未指定
14
登録しました。
close
ログイン
Readeeのメインアカウントで
ログインしてください
Readeeへの新規登録は
アプリからお願いします
- Webからの新規登録はできません。
- Facebook、Twitterでのログイ
ンは準備中で、現在ご利用できませ
ん。
シェア
X
LINE
リンク
楽天ブックスサイト
楽天ブックスアプリ
© Rakuten Group, Inc.
キーワードは1文字以上で検索してください
Readeeユーザー
(無題)
久しぶりに読みましね、こういうタイプの小説。主人公が破滅型の無頼漢の私小説。夏目雅子が亡くなった時に伊集院静は35歳。喪失感から立ち上がれずに酒とギャンブルに逃げ込んでいた筆者を彷彿とさせる小説である。昭和の匂いがプンプンする世界は、安心して身を任せることができる。著者が愚者よと呼びかけるのは、スポーツ紙の競輪記者エイジ、CMディレクター時代の後輩で今は芸能プロダクションの社長である三村、主人公の小説が読みたいと執筆を迫る編集者木暮である。いや何よりもユウジ本人が一番の愚者である。著者と彼ら3人との触れ合いには、単に友情と呼ぶには濃密過ぎる時間が流れ去るのであった。 アマチュアの自転車ライダーには「この野郎、死ね」と思われたこともなければ、殺気の中を潜り抜けたこともない。それがプロとアマの違いであり、その違いは覿面にあらわれていく。否が応でもプロ選手たちは汚れていく。 これが伊集院が思い描くプロの競輪選手像である。ユウジを含めて4人は、プロであろうとすればする程汚れていく世界競輪選手と同じ世界に棲み、同じ水を飲んでいる。彼らの外観は喧嘩っ早く、酒呑みで、博打打ちである。善良な市民社会では、鼻つまみ者と言って良い。ところが伊集院は彼らの中に、彼らなりの美学に従って生きようとする姿を描き出そうとする。そして、彼らは同じ匂いを嗅ぎ出すことかできて、しかも孤高の存在ユウジに憧れている。3人の男たちは、ユウジが大好きだから「ユウジの前で、みっともない姿は見せられない」と思っている。 本作には人生のヒントも冒険も描かれていない。生きることが即汚れる事であることを覚悟した緊張感を持って背徳の人生を生きる生活そのものが描かれている。 2014年11月13日 11:25:40 の変更内容が競合しています: 愚者よ、お前がいなくなって淋しくてたまらない 久しぶりに読みましね、こういうタイプの小説。主人公が破滅型の無頼漢の私小説。夏目雅子が亡くなった時に伊集院静は35歳。喪失感から立ち上がれずに酒とギャンブルに逃げ込んでいた筆者を彷彿とさせる小説である。昭和の匂いがプンプンする世界は、安心して身を任せることができる。著者が愚者よと呼びかけるのは、スポーツ紙の競輪記者エイジ、CMディレクター時代の後輩で今は芸能プロダクションの社長である三村、主人公の小説が読みたいと執筆を迫る編集者木暮である。いや何よりもユウジ本人が一番の愚者である。著者と彼ら3人との触れ合いには、単に友情と呼ぶには濃密過ぎる時間が流れ去るのであった。 アマチュアの自転車ライダーには「この野郎、死ね」と思われたこともなければ、殺気の中を潜り抜けたこともない。それがプロとアマの違いであり、その違いは覿面にあらわれていく。否が応でもプロ選手たちは汚れていく。 これが伊集院が思い描くプロの競輪選手像である。ユウジを含めて4人は、プロであろうとすればする程汚れていく世界競輪選手と同じ世界に棲み、同じ水を飲んでいる。彼らの外観は喧嘩っ早く、酒呑みで、博打打ちである。善良な市民社会では、鼻つまみ者と言って良い。ところが伊集院は彼らの中に、彼らなりの美学に従って生きようとする姿を描き出そうとする。そして、彼らは同じ匂いを嗅ぎ出すことかできて、しかも孤高の存在ユウジに憧れている。3人の男たちは、ユウジが大好きだから「ユウジの前で、みっともない姿は見せられない」と思っている。 本作には人生のヒントも冒険も描かれていない。生きることが即汚れる事であることを覚悟した緊張感を持って背徳の人生を生きる生活そのものが描かれている。 2014年11月13日 11:25:40 の変更内容が競合しています: 愚者よ、お前がいなくなって淋しくてたまらない 久しぶりに読みましね、こういうタイプの小説。主人公が破滅型の無頼漢の私小説。夏目雅子が亡くなった時に伊集院静は35歳。喪失感から立ち上がれずに酒とギャンブルに逃げ込んでいた筆者を彷彿とさせる小説である。昭和の匂いがプンプンする世界は、安心して身を任せることができる。著者が愚者よと呼びかけるのは、スポーツ紙の競輪記者エイジ、CMディレクター時代の後輩で今は芸能プロダクションの社長である三村、主人公の小説が読みたいと執筆を迫る編集者木暮である。いや何よりもユウジ本人が一番の愚者である。著者と彼ら3人との触れ合いには、単に友情と呼ぶには濃密過ぎる時間が流れ去るのであった。 アマチュアの自転車ライダーには「この野郎、死ね」と思われたこともなければ、殺気の中を潜り抜けたこともない。それがプロとアマの違いであり、その違いは覿面にあらわれていく。否が応でもプロ選手たちは汚れていく。 これが伊集院が思い描くプロの競輪選手像である。ユウジを含めて4人は、プロであろうとすればする程汚れていく世界競輪選手と同じ世界に棲み、同じ水を飲んでいる。彼らの外観は喧嘩っ早く、酒呑みで、博打打ちである。善良な市民社会では、鼻つまみ者と言って良い。ところが伊集院は彼らの中に、彼らなりの美学に従って生きようとする姿を描き出そうとする。そして、彼らは同じ匂いを嗅ぎ出すことかできて、しかも孤高の存在ユウジに憧れている。3人の男たちは、ユウジが大好きだから「ユウジの前で、みっともない姿は見せられない」と思っている。 本作には人生のヒントも冒険も描かれていない。生きることが即汚れる事であることを覚悟した緊張感を持って背徳の人生を生きる生活そのものが描かれている。
全部を表示いいね0件