両性具有の美

新潮文庫

白洲正子

2003年3月31日

新潮社

473円(税込)

小説・エッセイ / 文庫

光源氏、西行、世阿弥、南方熊楠。歴史に名を残す天性の芸術家たちが結んだ「男女や主従を超えたところにある美しい愛のかたち」とはー。薩摩隼人の血を享け、女性でありながら男性性を併せ持ち、小林秀雄、青山二郎ら当代一流の男たちとの交流に生きた白洲正子。その性差を超越したまなざしが、日本文化を遡り、愛と芸術に身を捧げた「魂の先達」と交歓する、白洲エッセイの白眉。

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とも

(無題)

-- 2018年01月22日

白洲正子の著書で表紙に興福寺の阿修羅像があしらわれていれば、誰しもが仏像の秘密に迫る内容を想像しますよね。修羅でありながら、優しい顔、男でも女でもない仏像に妖しい美しさを見出すのは何故か、その秘密を解説しましょう、といったところでしょうか。ところが本書の中身はゲイを語っているんです。ゲイで思い浮かべるのは三島由紀夫の「仮面の告白」や稲垣足穂の「少年愛の美学」ですね。文学作品から離れると南方熊楠の「男色談義」あたりは、熊楠が博識ぶりを発揮して微に入り細に渡って男色を解説してくれています。もっとも熊楠本人は男色に非常な興味を示したものの、プラトニックラブに徹していたようです。さて、本書における白洲正子のゲイを見る視線には、アブノーマルなものとするものは全く感じられません。むしろ、日本古来から異性愛とともに自然にあったもので、何も騒ぎだてすることはない、との姿勢ですね。本書はそんな視点から男色を通して日本文化を語っています。 日本文化を語るときに、半島の影響は避けて通ることができません。弥勒信仰は古くから東アジアに流布していました。釈迦滅後56億7千万年後に弥勒菩薩が出現して、釈迦在世に縁を結ばなかった衆生を救うといった信仰ですね。末法に生きる人々の弥勒への渇仰心が高いのも当然といえます。新羅の国でこの弥勒への憧れをベースに生まれたのが花郎でした。貴人の子弟のなかから容姿端麗な男子を選び出し、化粧美装させて登用しました。花郎は一種の社交クラブのような集団であり、他方では教育的機能を帯びた宗教的機関でもありました。こんな事を知ったのは、司馬遼太郎の「街道をゆく」でしたが、司馬遼太郎は我が国にも同様な例があるとして、西日本各地に「若衆宿」を訪ねる旅を重ねるのでした。 若衆宿は、一定の年齢に達した地域の青年を集め、地域の規律や生活上のルールを伝える土俗的な教育組織といってよいでしょう。飲酒・喫煙の指導、さらに村内の恋愛、性、結婚で一定の役割を担いました。また、地域社会の中で祭りを実施したほか、大人社会と同等の権限を持っていました。合宿が前提ですので、同性による性愛も予想されます。さて、ここからが本論になります。白洲正子の祖父・樺山男爵の出身地は鹿児島。著者は薩摩人に囲まれて育ったため、幼い頃から「よか二才」とか「よか稚児」とかいう言葉を普通に耳にしていたそうです。薩摩にあって武士育成のための教育的役割を持った青少年団体が「郷中」で、元服前の「稚児」を元服した独身青年の「二才」が指導&保護監督するシステムです。彼らの間に肉体的な交渉があるのは当たり前のことでした。薩摩隼人は「男色の道では群を抜いていた」そうで、著者は「彼ら武士の集団では、男色の道を知らない者は一人前扱いされなかった。武士として鍛えられ、教育されることは、男同士の契りを結ぶことでもあった」と断言しています。 ここまでが、著者が見つめた美、両性具有の美を理解する上での前提条件になります。さて、本論です。両性具有の美とは一体何を指すのでしょうか。それは言葉を変えれば幽玄の美と言い表すことができます。幽玄とは辞書によれば、奥深い味わいのあること、深い余情のあること、奥深くはかり知ることのできないこと、とあります。これでは掴みどころがありませんので、著者に補足説明してもらいます。例えば花は外に向かって美しく見えるものですが、幽玄はもっと奥深いところからにじみ出る雰囲気のようなものを意味しています。もうお分かりですね。幽玄の美と言えば、お能の代名詞ではありませんか。次には能が両性具有とどのように関連するのか、との疑問が生じるのは当然のことです。能は男性が演じる芸能である事を思い出してもらえれば答えには十分ですね。著者はもっとあからさまに、世阿弥の少年時代のこの世の物ならぬ幽玄美を語ったものとして史料を本書に掲載しています。 また、少年美こそが幽玄の美しさの実態である事を世阿弥は「児姿は幽玄の本風也」と書き残しています。児姿が基本で、これをマスターすれば老人も女性も演じられるというのです。もう一つ、お能の「安宅」や「船弁慶」で義経は子役が演じるということは知りませんでした。歌舞伎の勧進帳でも女形が演じるんだそうですね。では、もう立派な大人の義経をなぜ子方が演じるのでしょうか。その訳は「船弁慶」の前シテは静御前で、義経を大人が演じては、静御前がかすんでしまうというのです。「安宅」では、シテの弁慶がとっさの機転で義経をさんざん打ちすえる場面での哀れさが倍増する、という演出上の効果も生まれるのです。これが能のリアリズムだそうです。白洲正子という人は説明するということをしない人なんで、彼女が見ていた美が何者であるかは明らかでありませんが、少しはそれに近付けたような気がします。

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