
皇帝フリードリッヒ二世の生涯 下
塩野 七生
2013年12月18日
新潮社
2,640円(税込)
人文・思想・社会
中世最大の反逆者、その烈しい生と死を目撃せよ。ローマ法王との衝突と摩擦を恐れず、自己の信念を生き切ったー。
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(無題)
西ヨーロッパの歴史を見た時に、中世は「暗黒の」との枕詞が付くのが普通だ。これは何故なのか。ペストの流行や異端審問など人間にとって不幸な時代であったところから名付けられたのであろうが、歴史学の分野では最近はこの時代に再評価が行われていようだ。しかし、僕の素朴な実感から言えば、古代ローマの末裔を任じる西ヨーロッパで入浴の習慣を捨て去ったのは、何とも解せない。著者によれば入浴は身体に快感をもたらすからいかん、とのキリスト教指導者の言に従ったのだそうだ。かつてのローマ帝国では上下水道が完備されていたにもかかわらず、その後のメインテナンスを怠り、不潔にした結果の伝染病の蔓延などは理解に苦しむところだ。 ともあれ、現代の常識となっている西ヨーロッパの繁栄は、産業革命以降の100年あまりの事である。だから、12世紀になるまでは経済力・文化などの面などでイスラムや東ローマ帝国の後塵を拝していたのも事実である。 フリードリッヒ二世の政治は、中央集権の法治国家の建設にあったことは、上巻で述べた通りだが、もう一つの目標である政教分離についても触れておかねばなるまい。フリードリヒ二世を端的に言えば、合理主義、実証主義者であり、宗教には寛容というか無関心であった。中世にあって宗教的な無関心と他宗教への寛容はローマ法王から見れば反キリストだったのだ。フリードリッヒにしてみれば「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」とのイエス・キリストの言葉に従っただけであった。ところがこれでは「法王は太陽で、皇帝は月」と考える法王は面白いはずがないから、皇帝と対立して生涯3回の破門を与える。かくして中世ヨーロッパの法王と皇帝の抗争は「カノッサの屈辱」から始まってフリードリッヒで正面から衝突し、「アヴィニョンの捕囚」への流れとなる。 信仰上絶大な権力を握る法王が異端裁判という最終兵器を振りかざしたにも関わらず、世俗側の勝利は何によってもたらされたのか。それはインテリジェンスであった。法王の理不尽さと横暴を手紙に認めて諸侯に送ったのだった。フリードリッヒに降された異端審判がわが身にも及ぶ事を恐れた諸侯は皇帝側に付き、異端審判の結果が実効することは無かった。やがてはキリスト教に支配される時代は去り、ルネッサンスへとバトンタッチされることになるのだった。
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