
江戸の貧民
文春新書
塩見 鮮一郎
2014年8月20日
文藝春秋
880円(税込)
人文・思想・社会 / 新書
弾左衛門、車善七、乞胸、香具師……。江戸時代、貧しさと差別に負けることなく、たくましく生きる「身分外」の人々。彼らの足跡を追って、浅草、吉原、上野を歩く。 『浅草弾左衛門』『車善七』の著書で知られる筆者が最も得意とする江戸を舞台に描いた文春新書好評既刊『貧民の帝都』『中世の貧民』に続くシリーズ第三弾! 【目次】 1章 水難のエルドラド 2章 なぜ浅草弾左衛門か 3章 膨大な勢力の車善七 4章 乞胸や願人、そして虚無僧 5章 香具師の愛敬
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(無題)
穢多という被差別民を考える時、日本人が古来持つ「穢れ」の宗教感情を抜きにはできません。例えば、死穢は現在の私たちの心の底にもあたかも地下水のように流れています。死者と空間を共有した葬儀の後に塩で浄めるのは、その表れですね。どんなに忌み嫌っても、生き物に死はつきものですから、穢れを避けて通ることはできません。このために生まれたのか「方違え」といった方便や穢れを一手に引き受ける一群の人々でした。こうした人々が「賤民」とされ始めたのは、殺戮を職業とする武士が社会の支配層として定着してからのようです。さらに近世に入り、鎖国が完成すると革製品の輸入が止まり、国内での生産が求められると、皮革を手に入れるのに牛馬の死体処理を専らにする職業が誕生しました。多くの人が嫌がる穢れを押し付ける社会機構としての穢多は、欠かす事が出来ないばかりか、徳川幕府は積極的に活用しました。 江戸期に代々弾左衛門を名乗る家系がありました。穢多を管理するトップで、大名並みの扱いをうけました。奉行所に係る処刑の手伝い、牢屋敷の掃除、浮浪者の取り締まり、もう、ひとつの大きな仕事は皮革生産の管理ですね。奉行所の仕事は名誉ではありましたが、それによる報酬はありませんでした。このため、弾左衛門は彼らの生活を賄う為の収入の途を得る必要に迫られました。弾左衛門は、江戸の人口が増えてきたとき、ロウソクの灯心の生産に目をつけ、幕府から専売権を得るのでした。また、猿回しをやる「猿飼」の一族も各地の穢多小頭の管理下におかれました。武士社会での猿飼は、現代では予想もつかない役割を果たしていたのです。「十二支」では「馬は火気で猿は水気」となります。猿は馬の病を防ぐということから、猿飼は武士の厩で猿回しを披露して、馬の健康を祈ったのです。ですから、軍馬を擁する大名家にとって猿飼は特別な存在だったのです。 徳川幕府が汚れ役として社会システムに組み込んだ身分制度には、もう一つ非人がありました。江戸開闢以来、人口は増加の一途をたどりました。また、寛永の大飢饉では百姓は田畑を捨てて江戸に逃げ、江戸の路上には、むしろをかぶった者があふれました。これらが非人です。非人は仕事をしないで、江戸市中を物乞いをして回りました。ただ、市中の紙くずを拾ってリサイクルし、トイレットペーパーにする仕事だけはしていました。 徳川幕府は権力基盤を堅固なものとするために、改易、転封など大名の経済力を削ぐ政策を実行しました。この結果、武士の離職つまり浪人が増えました。それは社会不安の増加となって現れ、いきおい幕府は市中の浪人を徹底して統制する方針を取りました。 浪人のうちで、特に貧民化しているグループをひとまとめにして非人頭の支配のもとにおくというものです。しかし、いきなり「抱え非人」にするのは抵抗があるだろうから漫才とか、講釈などの演芸をする「乞胸(こうむね)」身分に位置付けました。折衷策としての「乞胸」身分は町人でした。ここからは賎民ではなくて、貧民の歴史になります。江戸には肩をそびやかし、格好をつけているが、食えなくなって物乞いをしている浪人がいました。「虚無僧」です。僧と称していますが、僧侶ではありませんでした。 また、落語が次第に人気を博すようになって、演芸が次第に変質していきます。それまでの諸芸は「ほどこし」を受けるために行われました。金銭の授受はいわゆる「投げ銭」でした。しかし、落語は「寄席」で芸を売るので先に木戸銭をもらいます。歌舞伎も同じで、他の演芸と違ってその後の社会に生き残れた理由のひとつになるのです。 この系統の最後には香具師があります。江戸期は大道で薬の販売をしていました。これが香具師です。ところで、「神農」という神があります。古代中国の伝説上の帝王で人々に農耕を教え、医薬を作り、また交易を行わせたといいます。日本では江戸時代から漢方医の尊崇をあつめていました。クスリと交易を業とする香具師にとって大切な守護神となったのです。有名なのは大阪市道修町の「少彦名神社」です。この神社は「神農さん」といわれます。一帯は、製薬会社発祥の地で田辺製薬、小野薬品工業、武田薬品工業、シオノギ製薬などがこの地で誕生しました。明治になって、香具師の称廃止条例が出て、薬の販売が禁止されると以後は、テキヤと言われるようになりました。 今まで見てきたように江戸期の経済的困窮者は、演芸・技芸を身につけたり、露店での商いで身を立てる社会システムに組み込まれて結果として幕府は、安定した社会を維持することができました。演芸の声などで満ちていた世界に例のない江戸の下町の貧民の賑やかさも今では夢のようです。一方では貧困が社会の深層に沈み込んで見えずらくなっています。そんな事を考えさせられる一書でした。
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