ニーチェもやっていた賢人の瞑想術
白取 春彦
2020年7月15日
宝島社
1,540円(税込)
人文・思想・社会 / 美容・暮らし・健康・料理
瞑想の静かなブームが続いています。エリートビジネスパーソンが福利厚生で学ぶ「マインドフルネス」もこの範疇に入ります。本書は基本「座って」行う瞑想を、「歩きながら」「すき間時間に呼吸でコントロールする」など、従来にない方法で簡単に行う方法とその効用を説きます。哲学者ニーチェも実践していた、座らなくていい、わざわざまとまった時間をとらなくても瞑想の効果が得られる、行動瞑想の入門書です。
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びょうき
途中
歴史上の有名な文化人たちがいかにして「観照」「瞑想」「超越(悟り)」を体得して、人生に活かしてきたか。そして、それらを現代の日々の生活に活かす方法が述べられた本。 意訳や要約ではあるものの、ニーチェ著の「人間的、あまりに人間的」やフロム著の「よりよく生きるということ」で現代にも通じる消費されていく生き方への警鐘を鳴らし、何もしないことの効用や今流行りのマインドフルネスを提唱していたことに驚く。また、リルケや道元が説く、物事を定義付けてしまう人間らしい部分への否定から始まる新しい価値観やブーバー著の「汝と我」は今を生きる私たちとって必要な思考の一つである。 世間の価値観をそのまま自分の価値観として、そこから自分や他人を見る限り、この世界は逃げ場のない生き地獄となってしまうのである。「生きるのがつらい」という感想は間違っていないのだ。(p.111) 世間の人々は才能や天才という言葉を使うものの、実は才能がどういうものであるかをまったく知らない。ただ自分とはまるで違って遠くにあるものを、才能や天才と呼ぶことでなんとなく理解した気になっているだけである。(p.120) 人付き合いにおいてしばしば飲食の席が設けられたりするのは、互いの構えをほぐそうとするためでもある。もちろん、リラックスした飲食の場を仲立ちにしても、いつまでも自分を偽っている、あるいは交わす言葉に嘘やトリック(企み)を混ぜているならば、相手を誘導することはできるだろうが、人間としての真の接近はほぼ不可能になってしまう。このように、自分の態度によって、書き物も生身の人間も私たちにとって2つの領域に分かれる。対立あるいは主とお客さんの関係になって、相手を知ることが少なくなるか、もしくは融合や相互理解の関係になって相手を自分のことのように知るようになるか、である。(p.127) 数学のように人間がルールを決めた人工のものならば、思考と論理を追って理解できるのは当然のことだ。ところが、現実はそんなふうにはいかない。もしすべてを見渡せたとしても、全体を理解することなどまったく不可能だ。たとえば、酒を飲まずには酒の酔いを理解できるはずもない。(中略)そもそも、現実に存在するものについて、どういう方法や知性を通じても「理解」は絶対にできない。せいぜい似たような過去の経験から憶測するだけにとどまる。本当に「わかる」には、いちいち体験をして、自分なりに「知る」ことしかできない。そのために、自分の体がここに存在しているのである。(中略)脳で何かを理解したり知ったりするわけではない。全身で世界を「体験」して知るのである。それこそが、この世界に生きていることの意義なのであり、人生の唯一にして最大の意義なのである。(p.147) 普通の人は、物事を世間の基準で決めつけて考え、その考えの外に出ない。しかし、深い瞑想生活の中にある人は物事の内部と同化するようになるわけだから、普通の人が普通に考えるように物事を外面だけでは見ていない。内面から、あるいはまた両面からも見ている。その自由自在な視点があるから、発見が多くなるのも当然なのである。そのことを普通の人はまったく知らないから、「才能の有無」という言い方でごまかしてしまうのである。才能という不思議なものは存在していない。その人がどうあるかに能力の発揮ができるかどうかがかかっているのだ。(p.164) 時間というモノはないけれど、物事の変化を把握するためのものとして仮構としての時間が便宜としてあるということです。わたしたちの生が今のようにあるためには時間というものがなければならないのです。(中略)私は、この世界にあるのはただ存在だけだと思います。すべてが存在であり、その存在がさまざまにデザインされてこの世界でいろんな形をとっているというふうに思うようになりました。だから、すべてはたわむれであり、おもしろい遊びのようなものです。私は、この世界はまさしく”存在の祝祭(カーニバル)”のようなものだと見ています(p.188) この私としての価値観と共に、この世界に触れる中で、人生をジョークのように楽しんで生きていきたい。
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