肝心の子供／眼と太陽

・肝心の心 ブッダ、息子のラーフラ、孫のティッサメッテイヤの視点から描かれた超越的な心性とその美しすぎる憧憬描写に圧倒された物語。 登場人物の心性を事細かく描くのではなく、事象を淡々と描いているため、登場人物に投影をして共感しながら読むというより、彼らの内的世界にどっぷり浸れるほどの広大で茫洋な世界観を楽しむ超越性があった。また軽やかな筆触のように表現された花鳥風月の描写を読んだ後に、種々の緑色で描かれた風光明媚な表紙を見ると、清澄な美しさに心を打たれた。 特に美しい憧憬描写はブッタの「緑の濃淡が混ざり合うそのさまは、まるで渦巻く青粉の沼面を見ているようだった。離れた河岸のほうへ目をやると、冬の間に朽ちた赤茶色の湿った枯葉の残る黒土の地面から、〜。さらに向こうには銀色の春の川があった」「何ものかが近づいてきた。音だった。〜。蝉が鳴いていた。〜。音に色彩が伴うなどという、そんな経験はブッダにも今まで一度もなかったのだが、この音は黄緑がかっていた」（p38-39）である。またティッサメッテイヤの「森の頂上には別世界が広がっていた。見渡す限りの黄緑色の新芽のあいだに点々と、白と薄桃色の花が咲き、見たこともない黄色い小鳥とクロアゲハ、アオスジアゲハ、ハナムグリたちが先を争って蜜を吸っていた。〜。太陽はまだ低い位置にあり、ここに生きる生き物たちのために惜しむことなく光と熱を与え続けていた。鳥たちの囀りと涼風の吹くかすかな音だけが聞こえてきた。〜。この林冠の世界に足を踏み入れた者はひとりしておらず、ブッダの孫こそが、その最初の人間となった」（p89-90）も印象的であった。 この物語を読んだ直後に「肝心の子供」がなぜ表題になったのかを考えたが自分なりの解釈がまとまらなかった。 肝心とは肝腎から由来するように欠くことのできない、最も重要という意味になるが、ラーフラもティッサメッテイヤも親の愛情を受けていたとは考えづらく、歪な親子関係が描かれている描写が多いように感じた。謀反され幽閉された親もいた。ブッダはラーフラの姿をみて、自分の使命を果たしたと考えているように彼らとって子供は誕生したことが重要で、その後は放置されてしまっていた。一般的に子供の発達成長において、親との愛着形成は重要にも関わらずだ。 そのため、発達に関して、ラーフラで興味深い描写が二つあった。一つはラーフラの記憶力、過去を視覚的に再現する過剰な力だ。これは一見特殊能力で垂涎の的に思えるが、過剰な感覚刺激のあふれ返った混乱した世界になり、苦悩に満ちてしまい、実生活にある種の欠落を及ぼしてしまう。一般的にこの特殊能力は認識の発達の異常が関係していると考えられている。本来正常発達ならば、意味のある視覚刺激をゲシュタルトとして能動的に切り出し、意味のない視覚刺激は背景に退けられる。彼の場合、この発達が欠陥している故に、感覚能力が人一倍鋭くなり、感覚したものをそのまま頭に焼き付ける直感像記憶が生まれているのだ。所謂、かなり知能の高いアスペルガー気質であることが伺える。アスペルガーは生物学的な脳の機能異常と考えるが、後天的に培われる発達性トラウマ障害という概念もあるため、歪な親子関係が寄与している可能性も考えられた。もう一つは、全ての物には人間と変わらぬ命が宿ると考えていることだ。これはアニミズムと呼ばれ、提唱したピアジェはこれを外界と自分を切り離せない、自己中心性が強い未成熟な状態であり、一般的には幼児（2-3歳）の成長過程に現れると考えられ、知覚と表象の区別が未分化の状態で、自我の発達の未熟を指すが、ラーフラは既に10歳に達していたため、発達に遅れをきたしていた可能性があった。しかし、その後ラーフラは自分の意志で城を出たため、自我の発達が遅れているわけではないと考えられるため、この考えは的が外れているようにも思えた。そして、この物語の焦点は、親と子の愛着ではなく、もっと超越的なものであり、現実世界との擦り合わせは無骨でもある。 表題の意図が理解できていない等と掘り下げられていないこと、また自分に掘り下げる知性や感性が足りてないことに忸怩たる思いがあるが、文章に引き込まれ、美しい描写に心が和やかになり、読み心地がすごく良く、あっという間に読んでしまった。彼らの心性をもっと深く知りたいので、仏教に明るくなる必要があるとも考えた。 また保坂氏の対談で、〈現代風俗を書くことが現代小説だと思っている人や芥川賞の小説を現代の若者が置かれた状況を描いた小説だと思ってる人たちは、この小説を観念的な小説だと思う〉と、まさに自分の感想について指摘され、狐につつまれた気持ちになった。保坂氏は、読者が事前に持っている観念をイラストにした現代社会こそが観念的であるといい、この本を読むと今まで自分が見ていた社会を映す言葉が変わり、そこに小説の存在価値があると説いていた。本質をみている穿った見方だと思うのと同時に、本に対する見方、楽しみ方の違いを感じた。自分は哲学的なことはわからないが、現代の人間がもつ苦悩や葛藤などの心理描写に対して考察する読み方をしているため、保坂氏のような視点も取り入れたいと考えた。 ・眼と太陽 アメリカ人女性との恋を描いた叙情的小説。 「雲の切れ間から太陽が射し込んだ。見渡す限りの遠くまで白い、家も白い、〜、この場所のあらゆるすべてが白かった。白いものも、白くないものも、すべてが白かった。雪の色が白だということ、赤とか黒とか黄土色ではなく白だということだけでも奇跡だが、太陽が光を注ぎ、微かな風を起こすと、その白いすべては更に白くなった」とリスを見たことで啓示を受けた場面は美しかった。詳細をぼやかされること、時間軸が飛ぶところなど、どこか掴みきれないところに中毒性を覚えた。 →上級医からのお返事 先生、ありがとうございます。「彼らの内的世界にどっぷり広大で茫洋な世界観を楽しむ超越性」自分がこの小説のどこに魅力を感じていたのかというのを言葉にして頂いたように感じます。そして、保坂和志さんもそうですが、この小説の書き手と登場人物たちとの距離感が独特で、いつも一定の距離を保つように書かれていることに気がつかされました。読み手がある登場人物に共感できるということは、また別の登場人物には共感できないということになるわけで、「縁起」という言葉が指し示すように、世界が常にある連関の中で展開され、その展開の連続の中で起こりうる事象なのだとすれば、そして書き手もその一部にすぎないのだとすれば、書き手の仕事は一人の登場人物に重きを置いたり、固定化された物語をなぞることではなく、そのような世界の「展開」を誠実に書き留める作業になるのではないでしょうか。その意味で、彼らの世界観は多元的であり、仏教的であるのかもしれません。 根気と労力を要するとは思いますが、ぜひこの自己の鍛錬ともいうべき作業を続けられてください。偉そうには言えませんが、すでに先生の一定の文体が出来上がっていると感じます。ご存知かもしれませんが、「ある小説家のその後の作品の萌芽は、すべて処女作に現れる」と言われています。つまり、実はデビュー第一作にその小説家のその後の作品のテーマや兆しが詰め込まれているということです。（ちなみにこれは、大江健三郎の『死者の奢り』文庫本の後書きで、江藤淳が評論しています。）これは小説に限らず、どの分野にも言え、ある物事に接したときのその人の中での本質的な主題は最初期に現れるのだと私は感じています。たとえば、「物事は始めたら半分終わり」などとも言いますし、カオス理論では初期値鋭敏性などと言われたりしますよね。卑近な例で言えば、長い医者人生の中でどうして、初期研修のたった２年間があれほど重要な意味を持つのか。それは初期研修の環境に慣れてしまうからという単なる適応の問題ではなくて、患者さんや医療そのものにその医者が初めて触れるその接触の時点で、その医者に内在する主題が全て展開される２年間だからなのではないかと感じます。そのため、先生が「まだ書き始めて短い時間なので」、と謙虚に仰られましたが、それが始められた時点で、実はその後の展開を予兆する重要な何かが始まったのだと捉えるべきです。ですから、書いたものは決して捨てずに、残していって、後から全てを振り返ると、ご自身にとって本質的な主題は実は最初に書いていたじゃないかということが起こると思います。どうして私が精神医学的な観点で小説を読んだり書いたりしないかということについて、はっきりと答えられなかったのですが、実は、私は診断というのはいつも治療のためにあるのであって、治療的文脈から離れた診断的行為はしないと、いつか自分に課しました。これは治療から切り離されてしまうと、診断がレッテルを貼るような行為になるためで、そのため、私は病跡学も、評論的な精神病理学も、司法鑑定もそれが必要なものであっても、遠い存在として距離を感じます。ただこれは、私がそもそも医者というものに心から望んでなったわけではなくて、自分の精神的な自由を保つために、文学と医学を切り離すために行った節制のようなもので、先生の書く仕事、見方を非難するわけではまったくありません。最後に、私が今取り組んでいる小説の最初の書き出しです。「光溢れる海のたちどころに白く消えいる汀に寝そべり、岩礁の洞からわき出るふなむしたちを横目にうとうととしていたとき。」私は幼少期に何度も訪れていた佐渡島の達者の海が原風景となっており、島と東京の往還の中で展開されるアイデンティティの動揺のようなものを小説として描けたらいいなと感じています。いつか先生にも読んで頂ける日が来たら嬉しいです。 →→ 先ほど、この返事に気づいて、今読ませていただきました。 先生の考えを文章で読むことができて大変嬉しいです。縁起の箇所で記載された考え方は、僕にとって新しい世界で、感動し、すごく心に沁みたのと同時に、小説の楽しみ方が増えた気がして、心が躍ってます。噛み締めながら繰り返し読んで、この文章を大切にしたいです。 また大江健三郎の死者の奢りの評論を読み、処女作に本質があるという話を同期と話したことがありましたが、あくまで小説に限り、自分の読書感想であったり、初期研修時代など、実生活に当てはめて考えることがなかったので、得心しました。本質的な主題は最初期に現れるという考え方は、自分の中で一つの柱になりそうですし、純粋にすごく面白いです。色々な考え方、柱を持って世の中をみたいので、カオス理論の初期値鋭敏性についても興味が湧いちゃいました。 先生の小説の書き出しですが、今にも濤声が聞こえてきそうな寂寞な描写に鳥肌が立ちました。このような文章は、多くの本を読んでも、様々な経験をして老成しても、書けない気がします。本を読むというより内的世界の深みと、一瞬一瞬に現れる儚くて美しい実体験を見逃さず、体験できることが必要なんですかね。 このような文章が書ける境地を、今の僕には見えないので、是非ご機会があれば教えて欲しいです。また書き出しだけでなく、アイデンティティの動揺のようなものを題材にした小説にすごく興味があります。先生が序盤に書いてくださった、世界が常にある連関の中で展開され、その展開の連続の中で起こりうる事象にアイデンティティの動揺性が加わる小説は、美しい憧憬描写に没入できそうな予感がしております。 示唆に富むお話しをいつも本当にありがとうございます。また是非おすすめの本や先生の考え方など教えてください！

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