童貞としての宮沢賢治
ちくま新書
押野武志
2003年4月7日
筑摩書房
770円(税込)
人文・思想・社会 / 新書
宮沢賢治は生涯独身を貫いた。それを自己犠牲による高邁な思想と捉えず、彼の作品を性的妄想がうずまく不純な産物として読みなおすと、これまでとは違う賢治像に出会える。「童貞」として、他者との関係を自ら断っていく賢治の生き方は、現代のさまざまなコミュニケーション障害の病につながり、また絶対的な他者との同一化を目指すテロリズムの思想にも親和性をもつ。まったく新しい宮沢賢治の世界を俯瞰する、挑戦的な一冊。
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(無題)
賢治研究の学者が言うことなので、間違いは無いのだろうが、宮沢賢治が童貞であったとは知らなかった。単に私が不勉強であっただけなのかもしれないが、現代に生きる普通の人間にとって、生涯を童貞のまま終える人生は尋常ではない。瀬戸内寂聴は今東光を師匠として出家した天台宗の尼僧である。彼女が天台宗の管長に「童貞ですか」と聞いたところ、顔を赤らめて「そうです」と答えたと、何かに書いてあったのを読んだ記憶がある。その時は「いやー、面と向かってよくそんなことを聞くもんだ」と思ったものだった。また、管主になるぐらいの高僧であれば生涯を聖僧として過ごすのだ、流石と感じ入ったものだった。僧侶であれば、出家の時からそれなりの覚悟があるのだろうが、それにしても並大抵の克己心ではないと思う。賢治は在家なのだから、そこには一体どんな感情や意思が働いていたのか、知りたいとの素朴な好奇心の高まりは否定できない。本書は真面目な宮沢賢治入門書であるが、人目を引く書名のネーミングは企画した編集者に技ありである。 生涯童貞を貫いたことから、賢治=聖人説が一部ファンの中にあるそうだ。しかし、著者は宮澤賢治が抱えていた対人関係や心の問題について、その生涯や作品から解き明かそうとする。本書には賢治を巡って「共依存」「対人恐怖」「醜形恐怖」「摂食障害」「トラウマ記憶」など、 興味深い精神医学的用語が登場する。これらは一見、賢治をこき下ろしているようだが、全て賢治聖人説を否定するために持ち出された言説である。著者は本書で、宮沢賢治は誰よりも人間くさい愛すべき人と描きたかったようだ。 ところで賢治の芸術や人間性を顕著に表す作品として「アメニモマケズ」をあげるのは順当なところだと思う。しかし、著者はこの詩に登場する人物像に異論を唱えるのだ。東西南北、八面六臂の活躍をする人間がデクノボウと呼ばれるわけがない、と言うのだ。確かに矛盾しているように見える。著者はこの点に関して「贈与論」を展開して前後の平仄を合わせようとする。私は、ここばかりはどうも腑に落ちない。賢治が法華信者である事を考え合わせれば、この詩のデクノボウに「常不敬菩薩」をイメージしていたことは、簡単に思い浮かぶからだ。 我深く汝等を敬う、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし
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