善のはかなさ

ブルガリアにおけるユダヤ人救出

ツヴェタン・トドロフ / 小野潮

2021年6月29日

新評論

3,300円(税込)

人文・思想・社会

東欧の小国ブルガリアは日本人には馴染みの薄い国である。長年オスマントルコの支配下にあり、第二次大戦後はソ連の衛星国だった。その小国で、大戦終了直前に、ひとつのできごとがあった。当時、ドイツ語圏出自の国王を戴き、枢軸国の一角をなすこの国で、国内のユダヤ人は、ナチスの強制収容所送りをすんでのところで逃れることができた。  本書が提起するのは、なぜそんなことが可能だったのかという問いである。  この国にも、ユダヤ人への抑圧は存在した。反ユダヤ的法律も制定された。この法律には多くの職業団体や国家体制の重要な一翼を担うブルガリア正教会などが反対したが、政府は反ユダヤ的政治運営を放棄しなかった。これにより、まず、第一次大戦の結果としてブルガリアの管理下に入った領土(マケドニアとトラキア)に住むユダヤ人の、ブルガリア国外の強制収容所への移送が開始される。転換をもたらしたのは、国会副議長ペシェフが主導した、政府支持派だったはずの43人の代議士による請願だった。このユダヤ人救出のための請願の発出と、その背後にあった多くの国民の支持が、国王にユダヤ人の強制収容所送りを諦めさせた。  本書はこの劇的なできごとを、当時の資料とその後の証言に語らせようとするものである。編者トドロフの執筆部分は原書全体の四分の一に留まり、他の部分はできごとを取りまくさまざまの資料・証言で構成されているが、編者トドロフはこの手法で、なぜそのようなことが可能になったのかを読者自身に考えさせようとしている。  そこから見えてくるのは、「善」を現実に到来させるためには何が必要かということである。それは、複雑な状況において「善」を効果的なものにする行動とはいかなるものかを見極める明晰さと、そうした行動を促すまともな人間的感情に他ならない。トドロフ自身は本書に付したコメントを次のように締め括っている。「〔…〕悪はたやすく広がる。これに対し、善は困難で、まれで、もろいものとして留まる。しかしそれでも、善は可能なのである。」(おの・うしお/19世紀フランス文学)

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