人生生涯小僧のこころ
大峯千日回峰行者が超人的修行の末につかんだ世界
塩沼亮潤
2008年3月31日
致知出版社
1,760円(税込)
人文・思想・社会
片道二十四キロ、高低差千三百メートル以上の山道を十六時間かけて一日で往復。九年の歳月をかけて四万八千キロを歩く。そういう苦行を経験したから、悟れるのではない。大事なのは、行から得たものを生活の中でよく実践することである。逆に言えば、それぞれに与えられた場でそれぞれに与えられた役目を果たしていく中でも、多くのことを感じ、悟ることができる。だから、私たちの人生はすべて修行なのである。
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行というのは…
大峯千日回峰行、四無行を成しえた塩沼亮潤氏の体験談。 通常の安全管理、医学常識とはかけ離れた荒行を行うことで見えてくるもの、悟るものがあるという経験を教えてもらった。若く体力があるから乗り切れたのだろうが死んでいてもおかしくない。壮絶な体験の中で感じた「五感が鋭敏になる感じ」には驚かされたし、そこから学べるものはかけがえのないものなのだろうと思う。「お山に入って何も気づかず悟らず帰ってくるのは、宝の山に入って何も持って帰ってこないのと同じ」とは、まさにその通りなのだろうと思うが、塩沼氏自身も言っているように、苦行をした人だけ、山で修業した人だけしか悟れないというものではないのだろう。それぞれに与えられた役目を果たしていく中で、心を研ぎ澄ませ、目を凝らし、耳を澄ませたときに、いろいろなことが悟れる、というのは心に残った。最後に残った難関を克服した瞬間のお話、心の器を大きくして我を捨てること、己の至らなさに涙し、日々限界に近付こうとする姿勢があればということか。
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