〔電子〕伯章

綾部敦

2019年7月20日

綾部敦

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小説・エッセイ / 人文・思想・社会

豊後の国杵築藩三万二千石、松平家の家臣、綾部道弘の屋敷に産声があがった。男の子である。その子は進平と名づけられ、やがて元服して絅斎(けいさい)と号した。これは彼の生涯を記す物語である。 杵築藩には六つの手永があり、一つごとに大庄屋が置かれ、その範囲を差配する村々には各村庄屋が置かれた。その一つである小原手永は、杵築藩中最大の村数を抱える手永大庄屋で、後藤氏がそれらを統括していた。 寛政八年(西暦で一七八六年)の春、国東郡小原村に位置する役宅ではすでに隠居した後藤宏生(ひろなり)が病に臥せりながら来客を待っていた。やがて六人の客が宏生の元を訪れた。宏生が長く付き合いをしてきた庄屋の面々や彼の友人達であった。やがて彼は友人達に口を開いた。 (小見出し) 第一話 ようこそご多忙の中おいでいただき、まず感謝申し上げます。 さて今日は空も晴れわたり、だいぶ暖かくなり、気分もよく、体のほうもだいぶ癒えてきております。 大変皆様にはご心配をおかけいたしましたが、かねてからのお話し、今日は十分にいたしたいと思っております。 絅斎先生のことにつきましては、もっと早くに皆様にお話しをしなければならなかったのですが、時間の経つのは早いもので、そうこうするうちにわが身も年老いてしまいました。 今日こうして皆様方とお会いする機会を得て、ようやく先生の話しができると思うと、何か胸の中に熱い物が流れてくるような気がいたします。 それでは昼食、夕食ともに用意もいたすよう申しておりますので酒を酌み交わしながらごゆるりと私の話しを聞いていただきたいと思います。 さて本題に入るまでに皆様にご説明したいことがございます。 紙筆も用意いたしておりますので、どうぞお使いになられて記録などもとられていただければ尚有難いと思います。 今から先生についてお話しする訳でございますが、何せその偉大な生涯を話す訳でございますので、なるべく落としのないように伝えなければなりませんので、これから五回に区切って、お話ししたいと思い、粗方まとめておりますのでどうぞよろしくお願い申し上げます。 あれは確か、ことし寛政八年からさかのぼること四十数年前の、寛延二年の春のことでした。 お役目で藩邸に行く用事がありまして、その帰りに杵築の先生のお住まいに立ち寄らせていただきました。 この頃はすでに隠居されて、先生のご長男である文右衛門様が家督を相続されていましたので、そのお姿は余生を送られているかのようで好きな和歌などに親しまれていました。 これから一年後、先生は亡くなられ、もう四十八年の長い月日が流れてしまっています。 もうこんなに月日が経ってしまったのかと思いつつ、先生に会ったあの日のことが昨日のように思えて、いまも私の瞼には先生とお会いした日のお姿が焼きついております。 私はご用の仕事を済ませてから、先生のお住まいがある南台に向かって足早に歩いていました。 心が少し踊るような気持ちがあり、それは近年、しばらく先生のお顔を拝見していなかったこともあり、会いに行くことの嬉しさのようなものが込み上げていたような気がいたします。 高台を上るともうそこに先生のお住まいがあって、かつて何度もくぐり抜けた懐かしい門を眺めながら先生をお呼びしたのです。 先生は春うららかな日和の中、庭に出て梅の花にやって来たメジロを眺めながら私の声を受け止めていただけたのか、 「やあ、運平君ではありませんか。」 と答えてくださいました。 突然の私の訪れに驚いたのか、メジロは一声鳴くや梅の枝から飛び去って行きました。 先生の静かな日常の生活に水を差しにやってきたような私の来訪ではありましたがそれでも先生はいつもの優しい眼差しで快く迎えてくださいました。 もうこの時はだいぶお年もとられており、思えば一回り小さくなられていたような気がいたします。 奥様が立てられたお茶をいただきましてから先生に誘われて二人で南台の八坂川が見える所まで散歩をいたしました。 そして眺めの良い所まで来ると、足を留めてそこに腰を下ろし、しばらく川の流れを見ておられましたが、ふと一言私にこのようなことを尋ねられました。 「運平君、人の一生はあの川の流れのようなもの、海は間近に迫っております。やがて私も逝く人となるでしょう。これで良かったのでしょうかねえ。」 この時先生の目から僅かの涙が滲んでいることに気がつきました。 しかし先生は常に平静を保っておられ、心が乱れるようなことは微塵も感じられませんでしたが、この涙がどのような意味を含んでいたのか、後年、私は私なりに気にかかり考えさせられました。 私の考えが果たして的を射ているかどうかは私自身もわかりませんが先生と永いお付き合いでしたもので、何か先生の想いが私の胸に去来してくるようで、ああ多分このような想いがあったに違いないと、このように思うわけでございます。 先生は藩士として三代の藩主に仕えたことは皆様もご存知のことと思われます。 若くして亡くなられた龍渓公様については後でまた詳しくお話ししますが、その後の藩主は親純公が藩主となられ、先生は郡宰として地方に出郷して農民の生活にあれこれと気を配られておりました。 これは先生のお人柄というか、身分問わずに、隅々の者に至るまで食べていけるであろうかと、その様をご自分の目で確かめられ村々の庄屋に話されていたのを先生に随行した私は間近に見てまいりました。 そうした先生の人となりを目の当りにした私は、このような人道的な藩士にお出会いしたことがなかったので胸が熱くなり、私もせめて万分の一でも見習わなければと悟らされた思いでありました。 それから間もなくして天災が相次ぎ飢饉が起き、藩内は大変な事態となり、農民の生活は非常事態となり、餓死するもの、自ら首をくくる者、こんな状況が皆様方の村々から寄せられ、これを回避するに何か良い手立てはないかと、私も役目がら藩役所に毎日のように出かけ、その対策に奔走いたした訳でありますが、ただ藩の重役の方々も右往左往するだけで、 「どうにもならぬ、これは天の災いであって、祈願以外に道はない」 と、そのような回答ばかりで何も手を差し伸べてはいただけません。 結局、藩から選ばれた庄屋の一人が祈願のために、とある有名な神宮に派遣されて様子を伺うこととなりました。 この頃先生はこの状況を深く憂慮され日々苦しまれ一つの決断をしておられました。 藩の蔵米を農民に開放するといった大胆な方針を打ち出そうとしていたのです。 藩の重役の面々から、こうした方針が打ち出されることを切に願い、まだかまだかと、お待ちしていたようですが、重役の方々は誰一人として藩の蔵を開く、打開策については口を開くことはなかったようです。 そしてしびれを切らした先生はついに決断されたのです。 「重役に進言しましょう。これ以外に救済策はない。」 先生は生活は苦しくともまず最低限食べていける、食べることができず人の命が奪われるようなことは絶対あってはならないことなのだといつも申されておりました。 こうした非常事態には最大限の努力をしなければならない、何が最も大切なことなのか常にこうしたことを考えることが統治をする者の責任であろうと、先生はそのように思ったに違いはありません。 人の身分に関わらずその人の命の大切さというものを最も理解されていたに違いはありません。 止むに止まれず、ついに重役の皆様方の御前で勇気を振るい、しかも臆することなく堂々と藩の蔵を開き民の救済をすべきだと進言したそうであります。 私共、六手永の大庄屋はこの報に接してから内心先生の徳を讃えて、よくぞ申されたと心ははちきれんばかりの喜びに湧いておりました。 しかし表だって我々庄屋如きが先生に同調して藩に直訴することは夫々の命をかけるような問題でもあったので、どうしても控え目になって、ひたすら願う所はこうした先生の意見を一早く藩の重役の方々が受け入れてくれるかどうか、ただ固唾を呑みながら待つのみでございました。 藩の重役に進言してからしばらく経ってのことでございます。 かなりの激論が交わされたようでありまして、その内容とやらが我々役職の耳に入ってきたのはそれから一月ほど経って、あれは確かいつものお役目により藩役所に出向いた時、であったと思われます。 藩の重役の方が我々役目方の面前で飢饉対策についての話しに触れた折、藩の蔵米について若干述べられたのです。 蔵米を開く、開かないで藩政が二分されており、もうしばらく時間がかかるそうでした。 先生は熱弁を振るわれ、そして蔵米を開いてはならないとする重役達の説得に懸命な努力をされているようでありました。 日頃から勤勉な先生はこの飢饉の救済策をいままで培ってきた学問と先生に天性備わっている慈悲という心で説いたに違いはなかったと思われます。 しかしこの時、重役のこぼした一言がどうしても気にかかり、私はお役目を終え帰宅してからもずっとその言葉が頭の中からはなれず、その夜はついに眠りにつけませんでした。 飢饉救済の進言に奔走するにあたり、先生はかなり無理をして説得にあたられているようで、民人の在り方や年貢の道理についてまでが議題に上ったそうであります。 先生の門人であった私は先生が何を言いたかったかが手にとるように見えてきました。 正直、先生が重役の方々に、そう話したかどうかは判りかねますが私は常々から先生の物の見方や考え方を教わってきましたので多分そうではないかと、皆様には推測ではありますが是非とも聞いていただきたいと思います。 先生はよくおっしゃっていました。 「藩は民あっての藩、こうして禄をいただき食べていけるのは、皆勤勉に働く農民や商人など、税を納めてくれる人々のおかげです。年貢は元は農民が産んだ結晶であって、元々は農民の物、その勤勉な農民が飢えて死ぬような事態があれば、米は元に返さなければ天の道理は叶えられないでしょう。」 このような言葉を耳にしたことがございました。 だから私はこの究極の言葉を出されて先生より上役の面々に至るまでを説得したに違いはあるまいと、このように考えたわけでございます。 一夜眠れず、このことがどうしても気にかかり翌日はまた杵築に足を運び、同じ役目がらの島清右衛門様を訪ねたのです。 島様は八坂手永を受け持っており、島様は私と同じく先生の門人だったもので、このことについて内々に話せる人はおらず、じっとしてはおられず、とにかく急ぎ会うことにいたしました。 やはり彼も私と同じく昨日のことがどうにも気にかかり、このことについて一刻も早く私に会い、話しをしたかったそうであります。 清右衛門という方は人々から言わせれば奇異な行動をする人だ、などと色んな噂を持つお人ではありましたが、私の見た目からすれば非常に能力に長けた人で並の知識人ではありません、並の人からみればそのように写っていたのでしょう。 私なんどと比べれば、天と地のひらき、私は凡人の領域から出ることができませんでしたが彼は有能な才を次々と発揮されました。 まあ、私としたことが話しが反れてきて島様の話しに飛んでしまいそうですので後々先生と島様がいかに気持ちが合った者同士であったかをお話ししたいと思いますので、いまは省略させていただきます。 島様はやはり先生のことがよく判っておいででしたもので、この後、先生の説かれた言葉そのものに重役の方々が付いていけないだろうと予測をたてておられました。 その根拠の一つとして藩の上役の方々殆どが譜代の臣ばかりであって、先生は異例の出世をしておられましたが元は豊後の守護、大友氏に従った侍の子孫であり、在郷の農民を初めとする人々とは深い縁に結ばれた関係、いかに先生が天の上の道理を説いたとしても、説けば説くほど、権力に阿る方々にとっては面白くない、やがては不興を買い、先生の道理は権勢によって引っ込められるのではないであろうかと言う心配が島様と私の見解でした。 しかし私共がいくら心配してもどうすることもできません。

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