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クジラの彼

有川浩「クジラの彼」

--2019年12月05日

長江貴士

書店員

クジラの彼

有川 浩

2010年06月30日

KADOKAWA 607円(税込)2010年06月30日

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3.92
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大きな視点で見れば世界は最終的にたった一つに集約されるのだけど、しかしやはり小さな視点で見るとそこかしこに世界というのはある。僕らの知らない世界があちらこちらに散らばっている。 世の中にはいろんな人がいて、牛丼屋でアルバイトをしている人もいれば、給食センターで働いている人もいるし、ボランティアでアフリカに行っている人もいれば、蟻の生態について調べている人もいる。ホームレスにも会社社長にも、AV女優にも市長にもそれぞれの世界があって、それぞれが小さな世界を作っている。 そして、間違いなくそのすべての小さな世界の中で恋愛というものが存在している。 恋愛というのは水みたいなもので、どんな場所にだって入り込んでしまう。年齢や環境などとは無関係に、恋愛の存在しないところはないと言ってしまっていいだろう。どんな世界にも何らかの形で恋愛は存在するわけで、そこに例外はない。 それが自衛隊という環境であってもだ。 自衛隊というのは僕からすれば非常に遠い存在だ。日本を守ってくれる存在ではあるのだろうが、しかしどうしたって守られているという実感には乏しい。災害などが起こった際に派遣されるケースが多いが、それにしたって僕はあまり関わったことがないし、僕と自衛隊という世界は結局交わることがない。 だからよくわからないイメージばかりが先行してしまうのだが、そこで起こっているはずの恋愛という部分にはなかなか想像が向かない。自衛隊というと、男ばかりの世界でものすごく閉鎖的で、外との交流があまりなく、そこに恋愛が存在するということについてあまりスムーズにイメージが出来ない。北海道で暮らしたことのない僕が北海道での冬の生活が想像できないように、自衛隊における恋愛というのもやはり想像できないものだ。 しかし、だからと言って恋愛が存在しないということはありえない。 知らない世界のことを知るというのは純粋に楽しいものだ。知るだけで自分の世界が広がるというのでは決してないが、しかし知らなかったことを知ることで見えてくるものはある。 実際、自衛隊における恋愛というのは相当に厳しいものがある。まず「普通」ということがありえない。異動も頻繁にあって必然的に遠距離恋愛になることもあるし、そもそも自衛隊の外の人との出会いが極端に少ない。基本的に寮のような生活なので外泊許可なども取らなくてはいけないし、機密をもらすことも出来ない。陸にいる人間ならまだしも、潜水艦乗りであればさらにその難易度は上がる。そもそも次いつ会うことが出来るかということすらさっぱり分からないのである。 そんな「普通」ではない恋愛の形を見ていると、僕らが「普通」だと思っている恋愛のなんと自由なことか、ということを実感するだろう。僕らの「普通」の恋愛にも様々に不満を抱く人がいるだろうけど、しかし、こう言ってはなんだが、自衛隊の恋愛に比べたら非常にいい。知らない世界について知るというのはつまり、自分が今いる世界と比較をするということでもあり、そこから見えてくるものもたくさんあることだろう。 恋愛というのは、小説では使い古されたテーマだ。ありとあらゆる恋愛の形が描かれ、消費されてきた。しかしどうだろう。恋愛を通して未知の世界について知るという小説はまだまだ多くはないように思う。そういう意味でも、本作は非常に面白いと思う。 そろそろ内容に入ろうと思います。 本作は、自衛隊を舞台にした恋愛小説をまとめた短編集になっています。有川浩がこれまでに発表した作品(主に「空の中」と「海の底」)の登場人物が多数出てくるので、そういう意味でも楽しめる作品です。 それぞれの短編をざっと紹介します。 「クジラの彼」 小さな商社に勤める中峯聡子は、人数合わせのために呼ばれた合コンで、見せゴマとして呼ばれただけの冬原春臣という超イケメンを掴まえた。お互い気があったし、ものすごく気楽にいられる関係で、付き合っててすごく楽しい。 でも彼は、潜水艦乗りだった。機密なので、潜水艦の停泊スケジュールなんかも知ることは出来ない。潜水艦ではメールも電話も届かない。本当に、「ただ待つ」だけの超厳しい遠距離恋愛の始まりだった…。 「ロールアウト」 軍用機の設計を請け負う会社で航空設計士として働く宮田絵里は、ちょっとしたピンチに陥った。 男子トイレに入らなくてはいけなくなったのだ。 ヒアリングのために基地を訪れた絵里は、案内役である高科という幹部自衛官に連れられて、高科が「通路だ」と言い張る男子トイレを横切らなくてはいけなくなった。これはセクハラではないのか…と頭を過ぎるが仕方ない。しかしこれは、トイレとの関わりのほんの始まりにすぎなかった。 軍用機の設計に関して自衛官からの要望を聞くヒアリングの席で絵里は、高科からの要望を聞くことになった。そこでの第一の要望がトイレだった。とにかく、使いやすいトイレにしてほしい。絵里は孤軍奮闘高科の要望を組み込むべく奮闘するのだが…。 「国防レンアイ」 女性陸上自衛官はWACと呼ばれている。女の割合が圧倒的に少ない自衛隊のこと、とにかく性別さえ女であればどんな不細工でもモテる場所だ。WACの方もそれを知っていて、だから階級の高い男を狙おうとしている。 さて配属したしたての新人WACに、つまらない男に引っかかるんじゃない、と檄を飛ばしている上官がいる。女教官として勇名を馳せる三池舞子だ。彼女と同期である伸下は、彼女の下僕のような扱いを受けているのだ。 今日も呼び出されて、飲みに付き合わされることになった。 話はお決まりの失恋話だ。とにかく、基地外の男と付き合っては遊ばれて捨てられるということを繰り返しているのだ。歯がゆい思いが募るが、しかしそれを口に出すのは難しい。今日もただ黙々と彼女の愚痴を聞き続けるだけだ…。 「有能な彼女」 夏木大和には、付き合って三年になる、五歳年下の彼女がいる。海上自衛隊の中でも特に問題児で通っている夏木に、将来を嘱望され主流に乗ろうとしている望が、ある事件をきっかけにして押しかけるようにして夏木の元へとやってきたのだ。 今では上陸の度にウィークリーマンションを借りて同棲するようになっている。しかしまだ結婚という話にはならない。夏木はどうも臆病なところがあって、イマイチ踏み込めない。十年来の付き合いである冬原に、30を越えたらプロポーズするのも気後れするよと言われ、それが現実になっている。 有能で主流になろうとしている彼女に自分は釣り合うのだろうか…いつもそんなことばかり考えてしまう。 「脱柵エレジー」 脱柵、というのは一般的な言葉ではない。要するに脱走のことで、様々な理由で脱柵をする者が出てくる。人間関係が巧くいかない、訓練についていけない、規則だけの生活が嫌になったなど理由は様々だが、いつまでもなくならない理由に色恋沙汰がある。 今日も清田は、彼の部下である吉川がすんでのところで未然に防いだ脱柵未遂者の前に立っている。要するに遠くにいる彼女に会いにいこうとしたというよくある話で、しかし清田にはそんな脱柵未遂者の心を入れ替えるネタを持っている。 自身もかつて彼女に会うために脱柵を試みたことがあるのだ。そして部下である吉川も同じく。こうして脱柵未遂者を捕まえては、いつもそのネタを繰り返すことになるのだ…。 「ファイターパイロットの君」 五歳の娘が唐突に降ってきたもんのすごい話題があって、それは「パパとママが始めてチューをしたところ」というものだ。幼稚園でそういう話になったらしい。すげー話をしているものだ。 なんて感心している場合ではない、と高巳は思う。妻である光稀はファイターパイロットとして忙しくしているので、火事だのこういう子供とのやり取りは全部自分のところにやってくるのだ。 日本中を大混乱に陥れたある事件が終わったあと。 高巳と光稀はデートをする運びに。そういうことに全然慣れていない光稀はもう異常に可愛くて反則ではないかと何度も思った。 そうして、デートの帰りの車の中でキスをした。 なんていうことを大分縮めて娘に教えてあげる。 家に入らずにファイターパイロットなんて危ない仕事をしている光稀のことを、高巳の両親は苦々しく思ってる。隙あらば娘に光稀の悪口を吹き込もうとする。娘もそれで揺らいでいるようだ。 信じてあげてくれ。 高巳は娘にそう語りかける…。 というような話です。 いやはや、さすが有川浩です。この作品もメチャクチャ楽しませていただきました。 巻末に有川浩は、自分は活字で書かれたベタ甘ラブロマが大好きなんだ文句あるかこらぁ~、なんてことを書いてあるんですけど、いえいえ全然文句なんかありません。すごくいいと思いました。 本作は自衛官の恋愛を描いているわけで、かなり普通じゃない恋愛小説です。展開は、まあ有川浩自身が言っているようにベタですが、でも設定が普通ではないので非常に面白いです。恋愛を最優先には出来ない、常に何らかの天秤や壁が存在する中で、彼らがいかにして相手との関係を築いて行くのかというのが本当に読みどころで、普通の恋愛小説とは違った面白さがあると思いました。 また、自衛隊の恋愛を描くことで、自衛隊という未知の世界についても知ることが出来るのは面白いところですね。これまでも有川浩は自衛隊を描いた作品を書いていますが、それは非常時における自衛隊であって、なかなか彼らの日常というのは伝わってこないものです。本作は、もちろんすべてでも完全でもないでしょうけど、でも自衛隊の普段の生活を垣間見ることの出来る作品としても非常に面白いのではないかなと思います。 また本作は、「空の中」や「海の底」の登場人物がわらわら出てきて、それらの作品を既に読んでいる僕としては、なるほど面白いなぁ、というところもありました。「クジラの彼」「有能な彼女」は共に「海の底」に出てくるし、「ロールアウト」と「ファイターパイロットの君」は「空の中」だと思います。「国防レンアイ」と「脱柵エレジー」は分かりませんが、登場人物の名前がどことなく聞き覚えがある気がするので、どこかに出てきたのかもしれません。 特に冬原・夏木・光稀の話を読めたのがかなりよかったですね。三人ともかなり強烈なキャラクターで印象的だったので、彼らの恋愛の話は読んでてかなり楽しかったです。特に光稀に関してはかなり萌えました。超ツンデレなので、最高ですね。 有川浩は初めこそラノベから出てきましたが、今ではエンターテイメント作家として第一級の作家になったなという風に思います。とにかくどの作品を読んでもべらぼうに面白いわけで、すごいものだと思います。この作品も是非読んで欲しいなと思います。「空の中」や「海の底」を読んでるとより面白いとは思いますが、本作を読んだ後にそれを読んでもいいかもしれません。かなりオススメです。普通の恋愛小説に飽きた人にも、恋愛小説をあんまり読まない人にも勧められる作品です。是非読んでみてください。


長江貴士ながえ・たかし

書店員

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