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新刊最速レビュー 蕎麦湯が来ない

短い言葉で現実の一瞬を切り取りながら、そこに「誰かに見られている自分」を発見しては恥ずかしがるような作品。

--2020年03月11日

長江貴士

書店員

蕎麦湯が来ない

せきしろ/又吉直樹

2020年03月12日

マガジンハウス 1540円(税込)2020年03月12日

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このエッセイの中で、一番共感してしまったのは、せきしろ氏の、コンビニでのコピーの話だ。僕も、まったく同じことをする。 ざっくり書くとこんな話だ。コンビニでコピーしようと思って先客がいる場合、その人の後ろに並ぶことはしない。相手にプレッシャーを与えるからだ。店内で何かを選んでいるフリをしながら待つ。でも時には、さらに後から来た人が、コピーしている人の後ろに並んでしまう。そうなった時、別のコンビニに行く。 というものだ。うわぁ、メチャクチャ分かる、と思った。 まあこれは、完全に個人的なもののコピーの場合。僕は先日、半分仕事みたいな状況で、コンビニにでのコピーをする必要があった。コンビニに向かいながら考えた。今回は、個人的な用事ではない。スピードも求められているぞ。しかも、土地勘のあまりない場所だ。どこにコンビニがあるかもちゃんとは分からない。とりあえず見つけたコンビニに先客がいたら、どうすべきか?いつもなら、並ばない。でも今回は、半分仕事だし、他のコンビニがどこにあるかも分からない。しょうがない、嫌だけど、先客がいたら、さりがなく後ろにいよう。 と考えながら向かったのだけど、結果先客はいなくて助かった。 せきしろ氏のエッセイには、こういう「自分が周りからどう見られている可能性があるか」という視点からのものが多く、実に面白い。 【私は人目を気にしてばかりいる。(中略) それでもきにしすぎであることには変わりなく、それはもう子どもの頃からずっとなのである。親に喜ばれようとか、先生に楽しんでもらおうとか、友達に驚いてもらおうとか、絶えずそういうことを考えながら行動し、わざと失敗することもあれば、あえて変わったことを口走ったりもした。】 僕も、まったく同じだ。僕は別に、「親に喜ばれようとか、先生に楽しんでもらおうとか、友達に驚いてもらおうとか」みたいなことはあまり考えてなくて、「どうしたら変な人と思われない行動が取れるか」「どうしたら「普通」の枠組みから外れないか」みたいなことを考えていたのだけど、基本的には同じだ。外側から自分がどう見られるかという情報を絶えずフィードバックさせながら、瞬間瞬間の自分の行動を微調整するのだ。もうそれは、僕にとっての当たり前の振る舞いになってしまったから、今ではそんなに大変だとは思わないけど、時々やっぱり、「めんどくさい性格だよなぁ」とは思う。 喫茶店でどの席に座るか、という葛藤も、分かるなぁ、と思う。結局、自分が他人からの見られ方をいつも気にしてしまうから、周りの人間もそうだ、と思い込んでいる部分がある。だから、お客さんの密度の低いところに移ろうとしているだけなのに、「隣の人から、『私の隣は嫌なのか』と思われるかもしれない」などと考えてしまうのだ。まあ、僕も考えてしまうのだけど、冷静に考えれば、そんな風に考える人の方が少数派かもしれない。あるいは、仮にそう思われたって、知らない人なんだから気にしなければいいのだ。でも、やっぱり気になっちゃう。 僕は喫茶店にはあまり行かないが、電車の座席でよく考える。電車の乗り降りなどの末、8人座れる席の一方に3人が固まってる、みたいになることがある。5席丸々空いてるんだから、移動してバランスよく座った方がいいと思うのだけど、でも、ここで動いたら相手を嫌な気分にさせたりしないかな、と思って動くのをためらう。で、一瞬ためらっちゃうと、もう動けなくなる。一瞬ためらった後移動する場合は、「一瞬ためらった理由を明らかにしつつ移動しなければならない」と思ってしまうからだ。そうなると、もう動けなくなる。ジ・エンドである。 ちなみに、これを書くと変態だと思われそうだが、電車の座席に座っていて、隣に女子高生が座ると嬉しい。これはどういう意味かというと、「隣に座るのを嫌悪するほどの何かが自分にあるわけじゃないんだ」と思えるからだ。禿げてたり清潔感が感じられなかったり臭かったりしたら、きっと隣には座らないだろう。そういうマイナスはきっとないんだろう、と思えるから嬉しい。もちろん、その判断だけなら女子高生である必要はないのだけど、女子高生は年上の異性に対してそういう判断を隠すことなく面に出すような気がするし、その判断基準がかなり厳しいと思うから、女子高生だとなお嬉しいのだ。 また、見られ方という話で言えば、この話も面白かった。知り合いの女性と回転寿司を食べに行ったせきしろ氏は、注文した女性に対して職人が「わさびは大丈夫?」と聞いているのを目撃。この女性、童顔で、実年齢よりかなり年下に見られるのだ。その時の女性の返答についてこう書いている。 【すると女性はさっきよりも高めの、まるで子どものような声で「はい」と答えたのだ。子どもと勘違いしている寿司職人に恥をかかせないようにと、気を遣って子どものふりをいたわけである。 この不思議な気の遣い方、私もよくする。】 僕も、実際にするかどうかはその時々だけど、するかどうか悩む場面は結構ある。僕は、気を遣ったことが相手に伝わってしまうのは失敗だと思っているので、そのことがほぼ伝わらないだろうと確信出来ればすると思う。でも、気を遣っていると伝わる可能性が感じられたら、やらないかな。まあでも、いずれにしても、感覚としてはもの凄くよく分かる。 共著者である又吉直樹のエッセイにも、この種の見られ方の話がある。一番好きなのは、フラッシュモブの話だ。 そのエッセイは、 【フラッシュモブの映像を見るたびに、当事者ではないのに緊張してしまう】 という一文から始まる。その書き出しから、最後まで、すべて妄想である。妄想の中で、もし自分がフラッシュモブで女性の告白をすることになったらどうするかと考え続ける。又吉の思考は、フラッシュモブも本来の役割を完全に喪失させる方向に展開される。しかし、その気持ちは分かる。「期待」とか「希望」程度のことでは、フラッシュモブのようなサプライズはできない。「確実」でなければ無理だ。しかし、「確実」なんてことがあるだろうか?ない。だったら…と展開する又吉の妄想は、絶対にフラッシュモブで告白などするわけないのに、妙にリアルで面白い。 この、妙にリアルで面白い妄想は他にもあって、例えば、ライブ会場でスタート時刻を過ぎても始まらない状況下で、名探偵コナンが登場するような事件が発生するのでは、と考えてしまう。しかも、その妄想の中で、又吉は自ら致命的なミスをしでかすかもしれない、と考えている。明らかに起こり得ないだろう妄想の中でさえ、又吉は、自分が失敗することを常に恐れているのだ。 居酒屋で出てくるお通しの話も、なんだか妙である。エッセイの書き出しは、お通しというのは最初に出てくるのに、あれは最初に食べるものとしてふさわしいのか、という議論だったはずなのに、途中から、お通しを残してしたら、もしかしたらこんなことが起こってしまうかもしれない、という妄想が展開される。しかもやはりそれは、ある意味で又吉が自分の失敗であると捉えるようなものになっているのだ。 ただ、こういう感覚も、分かるなぁ、と思う。起こっていないし、起こる可能性だって低いと分かっていることに対して、自らの間違いや失敗を先取りしておく。僕は、そうすると、ちょっと安心だ。これでもし本当に、妄想だったはずの状況が起こってしまっても、起こりうる失敗は想定できている、と思えるのだ。それはある種の安心感に繋がる。又吉がどういう理由でこんなことを考えてしまうのか、それは本書では書かれていないが、同じような理由ではないかと思う。 また、「誕生日の過ごし方が難しい」というエッセイも、別の意味で自意識が炸裂している。又吉は、何について「難しい」と言っているかというと、「誕生日を普通に過ごすこと」、つまり、「誕生日だからと言って特別な過ごし方をしないこと」が「難しい」と言っているのだ。 このエッセイ内では、この部分についてはあっさり素通りされるのだけど、まずこの主張の意味が理解できない人もいるだろう。要するに又吉は、「誕生日だからと言って特別な過ごし方をしたくはない」という価値観を持ってるという話なのだけど、さらにそこから拡大して、「結果的に特別な過ごし方をしてしまうことも避けたい」という考えも持っているのだ。 だから彼は、「普通に過ごす」「自然な一日を送る」ことを考えるのだが、しかしその時点で既に普通でも自然でもない。そういう意味で、「誕生日だからと言って特別な過ごし方をしないこと」はとても「難しい」ことなのだ。しかしある年の誕生日は、非常に良い過ごし方があった。「締め切りの過ぎた原稿を書く」という過ごし方だ。締め切りを過ぎてしまっているのだから、書かなければいけない。これは、ごく当たり前の日にも起こりうる、ごくごく当たり前のことであって、まったく誕生日らしくない、と又吉は考えて安心する。という話だ。 僕は、一人でいる時まで自分で自分を客観視することがあまりなくて、やはり誰かと関わる時に自意識の過剰さに対処しなければならなくなることが多い。そういう意味では、せきしろ氏寄りだと思う。又吉はむしろ、一人でいる時や妄想中に自意識が発動することが多いように思われる。個人的には珍しいタイプだと思うけど、どうだろう。あと、どうでもいいことに今気付いたけど、「せきしろ氏」と「氏」をつけてるのに「又吉」って呼び捨てだった。まあ、「またよしし」って、「し」が2つ続くのは違和感があるからなぁ、という理由にしておこう。 他にも、日常の隙間に落ちていそうな、よくそこに視線を向けようと思ったな、というようなエッセイが多くて面白い。ソファの隙間に挟まったものが見つかりにくいのと同じように(でも我が家にはソファはない)、日常の隙間に挟まっているものも、視点を変えないとなかなか見えてこない。印象的なエピソードだったら、記憶の引っかかりもあるだろうけど、あまりにも日常的すぎることは逆に意識が難しい。せきしろ氏が、「『相殺』って漢字を『そうさい』って読むのは当然知ってるんだけど、『あい…』って読んじゃうことがあって、否定しても説得力がない」みたいなことを書いてるエッセイがあって、こんなの、よく思い出せるなと感心する。それに、同じような漢字の例を他に2つも挙げるのだ。こういうのって僕の場合は、そういうことがあった瞬間に何かにメモでもしておかないと、後から意識的に思い出す方法はないのだけど、やはり何か脳の作りが違うんだろうか? さて、特にここまで触れてこなかったが、本書は、2人の自由律俳句をベースにエッセイが展開される。句集のように自由律俳句のみが掲載されてるページもある。あまり拾いすぎないようにするが、こんな日常の一瞬をよくもまあ照準を合わせて切り取れるものだと感心するものが多々ある。 「第一走者の親が謝っている」(又吉直樹) 「近所まで蹴り育てた石を諦める」(又吉直樹) 「店員同士の絆が凄いことはわかった」(又吉直樹) 「リュックから出す機会がなかったオセロ」(又吉直樹) 「靴紐をなおす場所を探す」(せきしろ) 「明らかに元セブンイレブン」(せきしろ) 「ホチキスでとめられるかの賭け」(せきしろ) 「ゴミ袋の結び目からゴミを入れる」(せきしろ) 日常のあちこちにマーキングのように置かれている自身の自意識に蹴躓いては、さらに自意識を過剰にさせていくような無限フィードバックの罠にハマった者たちが、短い言葉で現実の一瞬を切り取りながら、そこに「誰かに見られている自分」を発見しては恥ずかしがるような、そんな作品です。見事に、面白い。


長江貴士ながえ・たかし

書店員

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