
ヨーロッパを見る視角
岩波現代文庫 社会145
阿部 謹也
2006年12月15日
岩波書店
1,364円(税込)
人文・思想・社会 / 文庫
十一世紀以前においては、日本と同様な「世間」が存在していたヨーロッパが、なぜ個人を重視する社会へと転換したか。個人の誕生の背景には何が存在していたか。恋愛の成立、市民意識の形成というヨーロッパ社会の基底に関わる諸事象を、日本社会との比較史的考察を通じて明快に解明する。長年の西洋中世史研究と日本社会論との鮮やかな連結。
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(無題)
ヨーロッパの「社会」に対して日本の「世間」。セケンというのは生々しい人間のつながりのこと。親族をはじめ、地域、会社、学校などの集団そのもの。人間関係でつながった集団。いっぽう社会は、ルールベースの集団。契約や法、公的な概念で人間集団を外部から規定するドライな空間。パブリックなもの。 世間を特徴づけるのは、長幼の序があるということと、贈与互酬関係で人間関係の調整が行われていることだ。そうした贈与慣行を断ち切り、世間的呪縛から解き放たれ、ヨーロッパは近代社会への道を歩みはじめた、個それが中世以降のヨーロッパ。日本では、世間の目による相対座標で自分の位置を確定するしかない。 ところで、フクシマ原発災害以来、脱原発対原発推進が社会対世間に置き換えられる様な気がする。であるなら、日本にもキリスト教による暗黒時代を経ずに社会や個、自己の確立がなされたという事か。脱原発はマイノリティだけど、フロンティアを切り拓くのは、市民派マイノリティであるような予感がする。
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