ノルウェイの森(下)
講談社文庫
村上 春樹
2004年9月30日
講談社
715円(税込)
小説・エッセイ / 文庫
あらゆる物事を深刻に考えすぎないようにすること、あらゆる物事と自分の間にしかるべき距離を置くことー。あたらしい僕の大学生活はこうしてはじまった。自殺した親友キズキ、その恋人の直子、同じ学部の緑。等身大の人物を登場させ、心の震えや感動、そして哀しみを淡々とせつないまでに描いた作品。
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登場人物と死生観の魅力と性について
純文学らしく、ストーリーにら起承転結がなく平坦な流れであるが、登場人物と死生観が魅力的。 特に最大のポイントは死と性(生)である。 人生において、性は強く結びついていることは自明であるため、人を描く上で、性的描写を書くことはやむ終えない。 大衆文学は、娯楽性が強いため性に触れる必要はないが、深い次元を描く純文学では性に触れる描写が多いのは、至極当然だと思うため、村上春樹の性描写への嫌悪感、違和感は特にない。 死は、「死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ」と記された。 生は、「あらゆるものは通り過ぎていき、自分の努力ではどうにもならないことはある。それを受け入れて進んでいくこと」と記された。 それでは、性は何を示しているのだろうか。なぜ最後の場面では、レイコとわたなべは性行したのか。逆に緑とはなぜ頑なに性行をしなかったのか。 ワタナベとレイコと性行した理由は、20歳の誕生日に直子がワタナベを媒介したキズキと性行したように、ワタナベがレイコを媒介として直子と性行して別れの儀式をしたと考えることができる。 ただなぜこの儀式がセックスである必要があるのだろうか。 自分は、性行とは 愛情、快楽、刺激、破壊の手段だと考える。 愛情には、恋人以外にも尊敬する親しい間柄にも発生することもある。 快楽は、純粋な性欲の捌け口だろう。 刺激は、退屈した日常、鬱々とした日常、苛々した日常への緩和剤である。 破壊は、自傷行為としての性行で、リストカット等と同じで、混乱した辛い気持ちを自身の体で感覚として置き換えることで、気持ちを解消するための代償行為である。 ワタナベ→直子は、恋人への愛情 ワタナベ→不特定多数は、混乱した日常への破壊+鬱々とした日常への刺激 永沢→不特定多数は、退屈した日常への刺激 直子→ワタナベは、ワタナベを媒介にしたキズキへの愛情だろう。 ワタナベ→レイコはどうだろうか。 レイコを媒介とした直子への愛情であると第一に考えたいが、自分は混乱した辛い気持ちを解消するための破壊行為でもあると考える。 二人が救えなかった直子の死を、二人で改めて葬式を行い、喪の作業をした。悲嘆反応のプロセスとしてショック、否認、怒り、孤独、抑うつ、受容へと進むが、この時点では、怒り、孤独、抑うつといった負の感情がかなり強いと思う。 このようなやるせなを二人で共有し、気持ちを浄化させるための破壊行為としての儀式であったと考える。 この捉え方はあまりに感情的で暗澹とした考え方である。 しかし、上巻の序章からも、ワタナベは直子の死から立ち直れていない。 彼は、直子の死に直面し、抑圧否認することなく、自分を苦しめて、哀しみぬくしかないのだ。直子の思いはわからないので、自分を深く見つめ直していくしかないのだ。 とても辛いバッドエンドである。 以下は、よかった場合を抜粋。 ・死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ。我々は生きることによって同時に死を育んでいる。 しかしこれは我々が学ばねばならない真理の一部でしかなかった。直子の死が僕に教えたのはこういうことだった。 どのような真理を持ってしても愛するのものを亡くした悲しみを癒すことはできないのだ。 どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ。我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできないし、そしてその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対してはなんの役にも立たないのだ。 →上巻では見られなかった喪の作業に対する科白。なるほど。。 ・あなたがもし直子の死に対して何か痛みのやつなものを感じるのなら、あなたはその痛みを残りの人生を通してずっと感じ続けなさい。でもそれとは別に緑さんと二人で幸せになりなさい。あなたの痛みは緑さんとは関係ないものなのよ。だから辛いけど強くなりなさい。もっと成長して大人になりなさい。 →永沢さんからも指摘された「自分に同情するな」を、より優しく丁寧に説明しているように感じる。自分のことばかり考えて、自己憐憫になりやすいワタナベに、大切な相手への配慮を忘れるなと。個人の問題を他人にまで侵食させるなと。その区切りができることが大人であるということ。 ・(永沢)俺とワタナベの似ているどこらはね、自分のことを他人に理解してほしいと思っていないところなんだ。自分は自分で他人は他人だって。 (ワタナベ)まさか、僕はそれほど強い人間じゃありませんよ。誰にも理解されなくていいと思っているわけじゃない。理解し合いたいと思う相手だっています。ただそれ以外の人々にはある程度理解されなくても、まあこれは仕方ないだろうと思っているだけです。諦めているんです。だから永沢さんの言うように理解されなくなってかまわないと思っているわけじゃありません」 (永沢)人が誰かを理解するのは然るべき時期が来たからであって、その誰かが相手に理解してほしいと望んだからではない。 →すごく孤独な考え方。永沢は、強い人間になるために、他人の気持ちを汲み取ることをやめている。自分本位に、自分の価値だけを正当化して人生を歩んでいる。他人の気持ちを、汲み取ることをやめた背景には、傷ついてきた体験があり、鎧を纏っているのだろうか。それに対して、ワタナベは、直子とキズキに執着した考え方であり、どこか自己憐憫さを感じて儚さが強い。 そこに、「おれとワタナベには似ているところがあるんだよ。ワタナベと俺と同じように本質的には自分が何を考え、自分が何を感じ、自分がどう行動するか、そういうことにしか興味が持てないんだよ。だから自分と他人とを切り離して物を考えることができる」と永沢の言辞がある。 わたなべは思いやる心が強く、俯瞰して深く物事を考えることができるが、根底には、他人の視点からたった考え方ではなく、自分の視点からみた考え方が強い傾向にあるのは確かだと思う。 だからこそ、辛い体験があると、自己憐憫に走りやすい。 それに対して、緑は、物事を深く考えることはしないが、物事の本質を見抜く力が強く聡明である。 ワタナベとは反対で、自分の立場よりも相手の立場から物事を考える傾向、つまり利他的であり、苦労性で、献身性が強い。 ワタナベと緑には聡明さや喪失体験による孤独という共通点があるが、物事を考える際の見方が違う。ワタナベは自己憐憫となるが、緑は自分の気持ちと周囲への接し方を隔てることができる強い女性である。すごく素敵な女性である。
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登場人物と死生観の魅力と性について
「死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ」 我々は生きることによって同時に死を育んでいる。 しかしこれは我々が学ばねばならない真理の一部でしかなかった。 直子の死が僕に教えたのはこういうことだった。 どのような真理を持ってしても愛するのものを亡くした悲しみを癒すことはできないのだ。 どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ。我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできないし、そしてその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対してはなんの役にも立たないのだ。 →上巻では見られなかった喪の作業に対する科白。なるほど。。 あなたがもし直子の死に対して何か痛みのやつなものを感じるのなら、あなたはその痛みを残りの人生を通してずっと感じ続けなさい。でもそれとは別に緑さんと二人で幸せになりなさい。あなたの痛みは緑さんとは関係ないものなのよ。だから辛いけど強くなりなさい。もっと成長して大人になりなさい。 →永沢さんからも指摘された「自分に同情するな」を、より優しく丁寧に説明しているように感じる。自分のことばかり考えて、自己憐憫になりやすいワタナベに、大切な相手への配慮を忘れるなと。個人の問題を他人にまで侵食させるなと。その区切りができることが大人であるということ。 「俺とワタナベの似ているどこらはね、自分のことを他人に理解してほしいと思っていないところなんだ。自分は自分で他人は他人だって」 「まさか、僕はそれほど強い人間じゃありませんよ。誰にも理解されなくていいと思っているわけじゃない。理解し合いたいと思う相手だっています。ただそれ以外の人々にはある程度理解されなくても、まあこれは仕方ないだろうと思っているだけです。諦めているんです。だから永沢さんの言うように理解されなくなってかまわないと思っているわけじゃありません」 「人が誰かを理解するのは然るべき時期が来たからであって、その誰かが相手に理解してほしいと望んだからではない」 →すごく孤独な考え方。永沢さんは、強い人間になるために、他人の気持ちを汲み取ることをやめている。自分本位に、自分の価値だけを正当化して人生を歩んでいる。他人の気持ちを、汲み取ることをやめた背景には、傷ついてきた体験があり、鎧を纏っているのだろうか。それに対して、ワタナベは、直子とキズキに執着した考え方であり、どこか自己憐憫さを感じて儚さが強い。 そこに、「おれとワタナベには似ているところがあるんだよ。ワタナベと俺と同じように本質的には自分が何を考え、自分が何を感じ、自分がどう行動するか、そういうことにしか興味が持てないんだよ。だから自分と他人とを切り離して物を考えることができる」と永沢の言辞がある。わたなべは思いやりは強いとおもうが、他人の視点からたった考え方というより、自分の視点からみた考え方が強い傾向にあるのは確かだと思う。 ワタナベは物事を俯瞰して深く考えることができるが、相手の立場から物事を考えるよりも、自分の立場から物事を考える傾向にある。だからこそ、辛い体験があると、自己憐憫に走りやすい。 緑は、物事を深く考えることはしないが、物事の本質を見抜く力が強く聡明である。ワタナベとは反対で、自分の立場よりも相手の立場から物事を考える傾向にあり、苦労性で、献身性が強い。 ワタナベと緑には聡明さや喪失体験による孤独という共通点があるが、物事を考える際の見方が違う。ワタナベは自己憐憫となるが、緑は自分の気持ちと周囲への接し方を隔てることができる強い女性である。すごく素敵な女性である。 ストーリーとしては起承転結がなく平坦な流れであるが登場人物が魅力的。 加えてこの本の魅力は死生観であり、最大のポイントは死と性(生)である。(人生において、性は強く結びついている。人間を描く上で、性は必ず鮮明に書かなければならないとおもう。大衆文学では性に触れられないが純文学では性に触れる描写が多いのは、至極当然だとおもう) 死への考え方は、一行目に書いたように記されている。 生への考え方も、「あらゆるものは通り過ぎていく、自分の努力ではどうにもならないことはある。それを受け入れて進んでいくことが大人になること」(たしか、後で確認)と書いてあった。 性=セックスが何を示しているのだろうか。なぜ最後レイコとわたなべはしたのだろうか。緑とセックスを頑なにしなかったのは、なぜなのか。 ワタナベとレイコがセックスをした理由は、物語の流れから、20歳の誕生日に直子がワタナベを媒介したキズキとのセックスをしたように、ワタナベがレイコを媒介として直子とセックスをして別れの儀式をしたと考えることができる。ただなぜこの儀式がセックスなのだろうか。 セックスとは 愛情、快楽、刺激、破壊の手段だと考える。 愛情には、恋人以外にも尊敬する親しい間柄にも発生することもある。 快楽は、純粋な性欲の捌け口だろうか。 刺激は、退屈した日常、鬱々とした日常、苛々した日常への緩和剤であろうか。 破壊は、自傷行為としてのセックスで、リストカット等と同じで、混乱した辛い気持ちを自身の体で痛みとして感じ、解消するための代償行為である。 ワタナベ→直子は恋人への愛情 ワタナベ→不特定多数は混乱した日常への破壊+鬱々とした日常への刺激 永沢→不特定多数は退屈した日常への刺激 直子→ワタナベは、ワタナベを媒介にしたキズキへの愛情だろう。 ワタナベ→レイコに関しては、 レイコを媒介として直子への愛情は第一にあると考えたいが混乱した辛い気持ちを解消するための破壊行為もあると思う。 二人が救えなかった直子の死を、二人で改めて葬式を行い、喪の作業をする。悲嘆反応のプロセスとしてショック、否認、怒り、孤独、抑うつ、受容へと進むにないささか時間は足りないが、抑うつ、孤独の感情はかなり強いと思う。 そう言ったやるせなを二人で共有し、気持ちを浄化させるための儀式であったと考える。 ここの捉え方は、非常に難しい気がする。 この破壊行為という捉え方はあまりに感情的で暗澹とした考え方である。 けど、上巻のはじまりの文書からも、ワタナベは直子の死から立ち直れていない。哀しみぬくしかないのだ。
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(無題)
人を一番傷つけるのは人で、人が一番救われるのもまた人。人間のどうしようもない愚かさと、それでも生きるという命題のもとは走らされる人生の不条理を、音楽や、豊かな自然の中に描くことで人間の小ささや愚かさを浮き彫りにする。だけど最後には人間しかもたない小さな小さな美しさと強さを、浮かび上がらせる作品だと思う。 泣いた。ラストにかけてとめどなく自分や自分の周りの感情を想像して、随所に当てはめて涙で霞んだ。 もし、あのまま諒太が死んでしまっていたら私はどうなっていたのだろうか。多分新しい人と付き合って、それなりに愛し愛されながら生きていっていただろうと思う。 諒太が復活して元の性格とはほど遠い期間を経て、やっと戻り始めたときにも「なんか違う」と思った。多分、前の諒太なのだ。人は変わったり変わらなかったりする。その中で、相手が生きている場合はその時々変化を感じたり、それがいやであれば離れたり、する。だけど死んでしまえばその人の思い出を自分の中で美化させて大切にしてしまう。そう、そこで終わってしまう。一生成長しない人物を大切にし続けてしまいすぎる。 もし生きていたとしても、後遺症が残り私が好きだった諒太ではなくなっていたら、死を伴わずして死を感じることになる。「生は死の対局ではなくその一部にある」という言葉をどこかでも聞いたことがあって分からずして何となく使っていたけど、ようやく何となくわかる気がして。 「死」は生きる人の認識の中でしか存在しないもの。生きる人が哀しみ、苦しみ、何らかの意味を考えることが「死」である。死んでしまうということは物体がなくなる、ただそれだけなのね。生きる人が考えることで存在する概念が「死」なのか。 僕はどこにいるんだろう? ワタナベ君自身が、自分の心に問いかける言葉なのかと思う。自分は誰が好きで、誰を思い、心はどこにあるのか。そんな問いかけに感じた。自分の好きじゃない環境、好んでいない環境、好んでいない人達といると、自分の好きを見失う、という言葉を聞いたことがあって、 それに近いような気がする。自分の好きって何だろう?嫌なこと、尊敬できること、それとは別の「好き」について。 キズキの死によって失われた自分の中の何か、そして直子によっめ失われたなにか、今の自分に残るものとは。自分の心とはどこにあるのか?これから構築するも喪失したまま生きるも、どうなるのかは自分次第。 永沢さん、自分本位の人。「自分に同情だけはするな」 玲子さん 本当に交わりたかったのかな?それとも、大事な直子の親友である自分がその愛する人と交わうという「最低な行為」をやってのけることで、ワタナベのそれを「大人が壊す」ことに意味があったのかな。 直子 私のことを忘れないでいてね。もうそれは、初めからきまっていたことだったのか 緑 唯一この物語の中で「よくある人間関係」 突撃隊 突撃隊の綺麗好きはワタナベの中に残り続けた。死んだ人がその人の一部に残るように、いなくなって初めて自分の中に取り込む、生の中に「死」を存在させることに。 キズキ ワタナベの見ていたキズキと本来のキズキには若干のずれがあった。 ミズキが直子に残したものはワタナベで、直子がワタナベに残したものは玲子さん。
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