神様のボート

新潮文庫

江國香織

2002年7月31日

新潮社

572円(税込)

小説・エッセイ

昔、ママは、骨ごと溶けるような恋をし、その結果あたしが生まれた。“私の宝物は三つ。ピアノ。あのひと。そしてあなたよ草子”。必ず戻るといって消えたパパを待ってママとあたしは引越しを繰り返す。“私はあのひとのいない場所にはなじむわけにいかないの”“神様のボートにのってしまったから”-恋愛の静かな狂気に囚われた母葉子と、その傍らで成長していく娘草子の遙かな旅の物語。

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江國香織「神様のボート」

「自分の人生」なんて名前をつけることのできるもの。そんなものが存在するだろうか?そんなことを考えてみる。 人は、生まれてから死ぬまでを、完全に「自分のもの」にすることはできない。生まれることを決めることはできないし、いつ死ぬのかもわからないし、その過程の中で、誰かの人生の一部に取り込まれながら生きていかなくてはいけないからだ。 誰の人生の一部を過ごすか。そして、そこからいかに枝分かれるか。完全に「自分の人生」というものを歩けるようになった時、きっとそのことがとても大事になってくる。 僕は、早い段階で親の世界を抜け出した。出来る限り、あらゆる世界からの脱出を図った。地域や学校や社会といった、僕を取り巻くあらゆる世界からの脱出を。それぞれの世界と接点を保ったまま、あくまで接するだけで中には入り込ませない。僕自身も外には飛び出さないようにし、そうして僕は、かなり不器用ながらも、そして、かなり多くの人に迷惑を掛け傷つけながらも、今の位置を保っている。 それが正しいことだったのかどうなのか、未だに僕にはわからない。それぞれの世界に取り込まれたままではきっと僕は壊れていただろうと思う。僕にはそれが予測できてしまったし、どんなにそれを逃避と呼ばれようと、僕はそこに留まらなかったことを後悔していない。しかし、それはあくまで僕個人のレベルであって、僕の周囲まで含めたあらゆる事象を含めて考えた場合、正しい行動だったかどうか、判断は難しい。 だから、正しいかどうかはわからないけど、草子の決断は間違ってないと僕は思う。 なんというか、途中までは、とても退屈な物語だった。 言っておくが、退屈であるという評価は、必ずしも悪いものではない。僕は、毎日本を読んで仕事をして寝る、という退屈な日常を送っているけど、でもそんな日常のことは嫌いじゃない。そんな感じだ。 本作も、確かに読んでいて退屈だったけど、でも悪くはないと思っていた。なんか矛盾するみたいだけど、でも、江國の文章があまりにも透明で煌いているからだろう、と思う。まあ、文章については後でもう少しふれようと思うけど。 でも、最後の最後、枝分かれる部分まできてようやく、僕にとって本作の評価が大体決まった。あの枝分かれる部分、そこに至るまでの長い長い過程があるからこその場面であったと思う。そこにさしかかってようやく僕には、今まで退屈に描かれてきた親子の日常に、それまでは完全に透明で色彩がなかったその日常に、じわじわと色味が射していくような感じがした。 退屈な部分は長かったけど、全体としては結構よかった。それが本作の評価である。 少しだけ、ないように触れようと思う。 様々な土地へと引越しをして暮らしている母葉子と娘草子。引越しをするのには、葉子的に重要な意味がある。 葉子には、待ち人がいる。それは草子の父親でもある。その彼は、別れ際に葉子にこう言った。「必ず迎えにいく。二人がどこにいても絶対に探し出してみせる」と。 葉子は彼を心の底から愛していた。骨ごと溶けるような恋をした相手だった。だから、彼の言葉を信じた。彼以外の何かに慣れる事なんかできなかった。慣れてしまえば、彼に二度と会えなくなるような気がした。 だから葉子は、葉子自身のために、娘を引き連れて旅を続けている。 そこは完全に母葉子の世界である。その世界しか知ることのなかった娘は、母の世界の中で、母親の宝ものとしてすくすくと育っていく。 そう、幾度もの引越しにも順応し、文句一つ言わず旅のついていく娘。母親の狂気の世界の中で立派に育っていく娘。 「神様のボートに乗ってしまったから」そう言って娘を引き連れる母親と、引き連れられながらどんどん成長していく娘の物語。 こんな感じである。 少なくとも、僕には葉子の世界は理解することはできないだろう。僕なら、完全な自分の身勝手のために、子供の人生を振り回すようなことはできない。子供にだって、人生がある。親の世界からいつ枝分かれるか。その選択権は、常に子供に持たせておくべきだと思う。 文章について触れよう。ありきたりだけど、その透明感は素晴らしいものがあると思う。児童文学出身だからかもしれないが、漢字表記が普通であるものもひらがなになっていたりして、その、文章中における漢字とひらがなの割合というのも素晴らしいと思う。 どの場面も、音が聞こえそうなほど、色が浮かび上がってきそうなほど、匂いが漂ってきそうなほどの描写がなされる。手を伸ばせば触れられるのではないか、という世界が、江國の紡ぐ文章一つによって生み出されている。文章に特徴のある作家は何人もいるけれども、これほど「洗練」という言葉の似合う文章はないだろうと思う。 ボートに乗ったら旅に出なければならない。もしそうだとするなら、きっと僕は「神様のボート」になんか乗らないだろう。そう思ってみたりした。 僕なんかが勧めなくても読む人は読むだろうけど、結構いいと思います。

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みんなのレビュー (1)

とも

-- 2018年01月19日

恋の賞味期限が通常18ヶ月から3年と言われるのは何故なのか。人は恋に落ちると、脳内の化学物質・ドーパミン、セロトニン、ノルエピネフリンのバランスが崩れ、精神も肉体も、とても正常とは言い難い状態に陥ることが分かっている。こんな状態が続くと心身に大きな負担がかかるところから、脳内ホルモンの分泌が元に戻るように人間の体は作られているのだ。 仮に賞味期限が近づいてもホルモンバランスが元に戻らなかったらどうなるか、を描いたのが本作である。主人公・葉子は16年にもわたって恋をし続けた。その結果は精神に異常を来し、狂気の世界に生きざるを得なかったのである。本作は恋の危険性に触れた物語でもある。恋多き女・和泉式部は夫に離縁され、親に勘当されても恋に生き、多くの優れた恋の歌を残した。こうなると、もはや依存症の域に達しているのでは無いか、とも思われる。本作の葉子はこれとは違い、たった一度の恋で危険水域を超えてしまった。 その恋は通常の恋愛の数倍の蜜の味がした。なぜなら、背徳の恋であったからだ。夫を裏切る罪悪感と、それとは裏腹なスリルに満ちた恋人との甘い逢瀬。通常の恋に数倍するドーパミンの分泌が考えられる。過剰なドーパミンは葉子の精神世界を歪んだものに作り変え、やがて人生という流浪の海へと漂流し始めるのだった。 骨ごと溶けるような恋をした葉子は、その結果、1人娘・草子を設けた。葉子は宝物に囲まれて幸せな暮らしを送っていた。類い稀な美貌とピアノ奏者としての才能。そして、かつての恋人との思い出とその一粒種・草子である。草子もママとの二人暮らしに何の不満もなかった。たった1つ、何年か毎に引越しを繰り返すのを除いては。何ら必然性が認められない引越しの理由を葉子は草子に「だって神様のボートにのってしまったのだから、仕方ない」としか説明しなかった。もっと合理的な説明で納得を得たい読者は、ここからどんどんと葉子の世界に引き込まれていくのだった。 とろけるような甘い恋の蜜に隠れた危険な毒に侵された葉子の漂流が最後の繋留地にたどり着くには、草子の成長を待たなくてはならなかった。思春期を迎えたら草子の親ばなれは、葉子に現実を突きつけるところとなった。それは狂気の中に安穏と漂っていた葉子に葛藤をもたらし、さらに深い霧の中へと誘うのだった。

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