沈むフランシス
松家 仁之
2013年9月30日
新潮社
1,540円(税込)
小説・エッセイ
北海道の小さな村を郵便配達車でめぐる女。川のほとりの木造家屋に「フランシス」とともに暮らす男。五官のすべてがひらかれる深く鮮やかな恋愛小説。北海道の山村で出会った男女の恋愛の深まりを描きだす待望の第二作!
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(無題)
著者の前作「火山のふもとで」は印象的な作品でしたね。僕の場合、読んでる小説の数が多いので、ストーリーの細部まで記憶に残っている作品はそう多くはありません。その意味では「火山のふもとで」は今でも細部まで思い出すことができるので、きっと名作と呼んで良いのでしょうね。 勝ち組を目指す競争の舞台を降りしまった人の日常は、きっとこんな感じなのでしょうね。東京の巨大商社で総合職として働いてきた撫養桂子は、退社して北海道東部の小集落に移住しました。35歳の彼女が手をすることができた職は非正規の郵便配達でした。彼女の選択を理解できるのは、恐らく同じ想いを抱いた事のある人だけでしょう。彼女がかって生きていた都会で生活する人びとは「どうして今の恵まれた環境を投げ捨てることがあるの。もったいない」と彼女を非難することでしょう。そんな人に問われれば、都会の生活に疲れたからとも、もう勝ち残る競争が嫌になったから、とも答えたかもしれません。たとえ人生を降りたとしても、毎日の生活は死ぬまで続きます。そんな日常で一番高い価値観をおくのは、心地よさであることはよく分かりますね。気に入った日常雑貨や家具、それらが醸し出す空気の中で好きな音楽を聴いて過ごす、例えばこんな生活です。 そんな桂子に同類の匂いを嗅ぎだしていた男が居ました。寺富野和彦です。和彦は「ちゃんとしたら音を聞くためにフランシスとここで暮らしている」と自己紹介します。フランシスとはフランシス・タービン、つまり水力発電機のことです。和彦は小規模発電所の保守要員を生業として、趣味に生きる生活をしていたのです。世捨て人みたいですね。彼の趣味は「音」。もちろん音楽も好きですが、彼の場合は音そのものをオーディオ装置でどれだけ再現できるかを追求します。その徹底ぶりは、電源が上流であればあるほど迫力のある音が出せる、と発電所の近くに住むほどです。 鼻がペニスの象徴である事は、あらゆる心理学の本に書かれていますね。本書の表紙写真は犬の鼻のアップです。その写真に書名と作者名が箔押しされたような銀色のインクで、ごく控えめに小さな活字が並びます。これだけを見れば、フランシスと言う名の犬のお話かと思ってしまいます。なにか深い意味を予感させて気になります。そんな疑問は本書の中程まで読み進めると解消します。桂子が和彦の家に招待されて2度目のことでした。和彦に抱き抱えられた桂子は、お腹の辺りに硬い塊のようなものを感じていました。それは桂子が中学生の時、帰宅すると飼っていた犬が歓迎のあまりぐいぐい鼻面を押し付けてきた感じに似ていました。セックスに趣味の良さがあるのかどうかは分かりませんが、きっと相性も良かったのでしょう。桂子はこうして毎週末を和彦の家で過ごす様になりました。しかしながら、和彦には何やら秘密めいた事があるのが分かってきます。 この作品が描き出した空間には、趣味のよさや自らの人生に自分らしい意味付けを与えたり、そうして生きる自分への満足感が満ちているように感じます。この空気は決してこの作品のみが所有するものではなく、むしろ時代精神を的確に表現したものと言えましょう。
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