謎の渡来人 秦氏

文春新書

水谷 千秋

2009年12月16日

文藝春秋

935円(税込)

人文・思想・社会 / 新書

古代最大の人口を誇る氏族は、最高の技術者集団!政治や軍事には関わらず、織物、土木、酒造、流通など殖産興業に力を発揮。先端テクノロジーで古代国家の基盤をつくった民の素顔とは。

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2.8 2018年01月28日

秦氏は弓月君にひきいられて百済から帰化した中国系住民で、平安期の新撰姓氏録によれば、一族は一万八千七百六十人の多くに上っているそうです。当時の全人口に占める割合は、5%程度で最大の氏族だったようです。秦氏はアメーバのような存在で、血のつながりで固まっていたのではなく、大規模な職能集団と考えた方がわかりやすいようです。 秦氏が大陸より携えてきた文化は極めて高度なものであり、その財力と土木技術を活かして、灌漑や大規模な土木工事、古墳の造営に着手し、特に西山、北山、東山の山麓に囲まれた山背国と呼ばれる地域の開発と発展に大きく貢献しました。そして、八幡神社や広隆寺をはじめとする多くの神社を全国に設立したのです。また、養蚕や機織り、酒造も手掛け、楽器や紙といったさまざまな文化・芸術に関する教養も日本にもたらし、飛鳥文化における中心的な役割を担いました。秦という名前から、機織りという言葉が生まれたとも言われています。さらに政治・経済においても秦氏の影響力は計り知れず、聖徳太子のブレーンとして活躍した秦河勝を筆頭に、秦氏はその絶大なる経済力を背景に多くの寺院を建立し、朝廷に対して強い影響力を保持したが故に、最終的には平安京さえも短期間で造営する原動力となったのです。日本の基層文化を築きあげたのは秦氏だった、といっても過言ではありません。 秦氏は基本的に自分たちの行動を隠していますが、それでも平安初期までは目に留まるだけの痕跡があります。しかしそれ以降になると、表面的な活動は、ほとんど見られません。不可解な彼らの行動に意味を与えるとすれば、秦氏は、平安期以降自ら歴史の裏面に潜ったと考えるしかないでしょう。では彼らは、なにゆえに、どこに、またどのようにして潜ったのでしょう。ここに秦氏の謎を解く最初の糸口があるはずです。では、平安期以降の秦氏の姿を見ていきましょう。 聖徳太子のブレーンとして有名な秦川勝はもうご存知ですね。彼は大和猿楽の創始者でもあり、芸能の祖神として各層から幅広い崇敬を集めました。また能楽の祖である観阿弥、世阿弥も秦氏の系統です。四天王寺の伎楽奏者もその多くは秦氏です。このように秦氏は芸能関係の中に流れ込みます。 次が、遊行者や呪術、陰陽道の流れです。秦川勝の子孫に著名な秦道満がいますね。彼は安倍晴明と並ぶ陰陽師です。しかも、秦道満または秦勝道の子とされるのが有名な八百比丘尼で、八百歳まで生きたこの尼の伝説は漂白の巫女によって受け継がれてきました。 秦川勝から秦勝道、秦道満へと続く秦氏の系譜は、八百比丘尼からいわゆる七道者へと引き継がれます。彼らは漂白遊行の陰陽師。七道者とは猿楽、アルキ白拍子、アルキ御子、金タタキ、本タタキ、アルキ横行、猿飼を指しているのです。 平安期以降の秦氏は、下級陰陽師や芸能の徒、漂泊遊行の徒、山岳修験者として、どちらかといえば下層の民になり、最後は非人扱いとなってしまいました。古代における秦氏は、陰で日本の権力者を支え、時代が下るにつれて民衆や民間信仰の中に埋没し潜行していったのです。

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