文・堺雅人

文春文庫

堺 雅人

2013年7月10日

文藝春秋

715円(税込)

エンタメ・ゲーム

堺雅人は鞄に原稿を書くための道具を入れて、持ち歩いている。撮影の合間に楽屋で、休みの日に喫茶店で、「演じる」ことについて考え、文章にするのだ。そうして生まれた54作の本格エッセイに加え、作家の宮尾登美子氏、長嶋有氏との対談やインタビュー、写真を掘り起こして収録。役者の思考や日常が垣間見える一冊。出演作品リスト付き。

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堺雅人「文・堺雅人」

僕は、「考えている人」「ことばで語れる人」が好きだ。 日常の中でも、非日常の中でもいい。ほんの些細なことでも大きなことでもいい。特に意識することもなく、「考えている人」というのはいい。僕は、自分が割とそうだ。普段から、色々と何かを「考えている」。それは、重要な問題かもしれないし、どうでもいいくだらないことかもしれないけど、ふとした瞬間に色んなことを考えてしまう。 それは決して、「考えようと意気込んでいる」わけでは決してない。もちろん、そういう時もあるが、僕が「考えている人が好きだ」という時の「考える」は、そういう意気込みのないものだ。何も意識せずとも、ふと疑問が頭の中に忍び寄る。なんだろう?何故なんだろう?どういうことなんだろう?どうなっているんだろう?そういう疑問に「捕まってしまう」のだ。 堺雅人は、本書を読む限り、まさにそういう人のそうだ。日常の、あるいは非日常の様々な疑問に「捕まってしまう」。そしてそれは、堺雅人という人間の人生に、ゆるりと組み込まれている。「考える自分」も含めて、一つのまとまりなのだ。それが伝わってくるように思える。 また、堺雅人は、自分の頭の中のグルグルとした思考を「ことば」に変換することが出来る人だ。これも、凄く良い。 普通、人間が考えていることに対して、「それに見合うぴったりのことば」が用意されていることは少ない。人間は人それぞれ全然違うし、考えていることも違うし、価値観も違う。「ことば」というのは、そういう人間の差異をそぎ落として、出来るだけみなが同じ意味を描けるように作られたものだ。 だから、ただ普通に「ことば」を並べただけで、自分の内側にあるグルグルを表現できるはずがない。 だからこそ、色々考えて「ことば」をひねり出す。本書の元になっているのは、テレビ雑誌で月1で連載していたものだというが、堺雅人はそのエッセイを書くのに、二週間、遅い時は三週間も時間を掛けるという。「原稿料はもらってるが割に合わない」といいながらも、「すごくたのしい」とも言う堺雅人。それは、普段、自分の内側にあるグルグルを「ことば」にして外に出す機会がないからだろう。俳優という職業は、「決められたセリフを決められたように喋る」ものだ。自分の意志を絡ませることが出来る余地は少ないだろうし、自分の「ことば」が求められる機会も少ないはずだ。仕事以外の場でどういう生活を送っているのか、それは本書からはあまり立ち上がってこないが、しかしブログを書いたり日記を書いたりしているわけではないのだろうと思う。 そういう中で、日々自分が頭の中で考えていることを「ことば」に落としこんでいくというのは、堺雅人にとってとても楽しいことだったのだろう。その気持ちは、とてもよくわかる。「出来るだけみなが同じ意味を描けるように作られたことば」を使って、「今自分の内側にある、この、そこらにあることばでは描き出せない何か」を表現していくのは、とても楽しいことだっただろう。読んでいて、楽しみながら書いているんだろうなぁということが伝わってくるようにも思う。 堺雅人の文章は、とても穏やかで、本人に会ったこともないのに(というか僕は、堺雅人が出ているドラマや映画をたぶん見たことがない)こういうことを言うのはどうかと思うのだけど、本人の人柄が出ているなぁという気がする。 『正直にいえば「おもしろい」かどうか全然わからないのだ。連載中もいまひとつ自信がなかったし、こうして出版される段になってもよくわからない。出版にかかる費用、どのくらい売れれば採算がとれるのかなど、おカネのハナシになるともうだめだ。そこまでのおカネにみあう価値があるのかなんて、かんがえることさえこわい。この件に関するかぎり、どうやら僕はしらんぷりをきめこみたがっている。』 これは、本書の最後に書かれている「あとがきにかえて」の文章だ。どうだろうか。この文章だけ読めば、「ずるい」と感じる人もいるかもしれないけど、全編こんな感じのテンションで紡がれるエッセイを読んでいると、なるほどこういう感じの謙虚で穏やかな人なんだろうなという感じがする。 堺雅人は、俳優という職業柄、様々な環境に馴染むことを求められる。撮影現場であちこちに行きながら、その場その場で求められることをこなしていかなければいけないのだ。堺雅人は、どちらかというとそういうのが得意なのだろうなと思わされる。どこにでもするりと入り込んでいく。でも、やはり自分の日常と地続きではない世界へと常に足を踏み入れていくわけだから、「すんなり」とはいかない。そういう時に感じる「違和感」を、丁寧に丁寧にことばにして文章を書いているように思う。 『ふつう旅にでるときは、宿を手配したり、ガイドブックをひろげたりしているうちに、ココロはすこし目的地に飛んでいたりするものだ。僕の場合、そうした作業はスタッフのかたがすませておいてくれるので、ココロの準備ができないままに出発をむかえることになる。到着してはじめて「みしらぬ土地」だという実感がわいてきてジタバタするのだ。 シャーレにいれられた虫が、環境の変化にビックリして、触覚であちこちコツコツたたいてまわるようなものである。あわてて情報をあつめようとするので、ふだん口にしないヤギのスープなんかを注文してしまう(うまかった)。』 撮影であちこちに行くときの、自分の内側の「うきうき」を分析した文章だ。 『僕自身のことをいえば、十八で上京したときに自分の歴史がそこでプッツリ途切れてしまったような、そんな感覚をもっている。幼馴染やなまったコトバなど、それまでの自分にまとわりついていたものが綺麗さっぱりなくなってしまったかんじなのだ。当時の僕にはそのサッパリ感がここちよかったのだが、身ひとつで海外に移住したような、フワフワした感覚はいまでものこっている。 (中略) 僕のなかには東京コトバでうまくいいあらわせないなにかがあるのだが、僕のさびついた宮崎コトバではもうそれは表現できない』 関西出身の役者の「生活」に関する部分の違いへの驚きから始まった思考を描いた文章だ。 『ところが、幕末や明治にあこがれることはあっても、イラクやアフガンに感情移入することはあまりない。すくなくとも僕はそうだ。きっと彼らのかかえる矛盾や混乱が、あまりにも生々しく感じられるからだろう。僕が“明治”にあこがれるとき、明治人のもつ生々しさを都合よくわすれてしまうものなのかもしれない』 「新しさ」に満ちた明治時代に憧れる一方、現代では当時の矛盾や混乱の生々しさは捉えきれない、という思考を文章にしたものだ。 どの文章も、自分を一歩も二歩も後ろから引き下がって観察して、客観的に自分の思考を掬いだそうとしているようだ。自分のことは自分だってわかりゃしない、という前提に立ちながら、きっと自分はこんな風に考えているんだろうな、というようなスタンスがとても好ましいし、もちろん自分の考えを誰かに押し付けたりするような感じでもないので、読んでいて不安になるようなこともない。あくまでも、「自分の思考」というものを一つの研究対象と見立てて、あらゆる角度から精査しているような佇まいが、とても好ましく映るのである。 物事を見る「視点」だけでなく、文章の「表現」もなかなかに秀逸だと思う。本を日常的に読んでいるという部分もあるだろうけど、やはり普段から、「自分の気持ちにあったことば」を探しているのだろうと思う。無意識の内に。 『二十年ちかくたった今でも「1989年」の春のことをおもいだそうとすると、たかく舞い上がっていたものが落下する直前の、ふわりとした無重力感のような、そんなとりとめのない気持ちになってしまう』 『「そこにいて、なにもしない」 は、 「なにかする」 とおなじぐらい大切なことだ』 『ジョイスやスウィフトといったアイルランドの作家たちが、イギリスの言語で小説をかいたようなものだろうか。損をしているのか得をしているのかは、さっぱりわからないけれど。』 『春のやすみは、夏や冬のようにおなさけでもらっているような(あつくて大変だろうからやすんでおけ、といわれているみたいな)長期休暇とちがって、正真正銘のおやすみ、といったかんじがする。 なにしろむこうの準備がそろうのを待っているのだ。安心してノンビリできる』 『じつをいえば「ホンモノではないかもしれない」という不安はいまでもすこしのこっている。そんなときには、まわりにいる本物の俳優さんや、本物の劇場や、たのしんでくれている本物のお客さんを見て安心するのだ。 「これだけホンモノにかこまれているのだから僕もホンモノなのだろう」と、あくまでも帰納法的に。』 『タイトルに「品格」の文字がはいった本を読んでいても、そこで語られているのは品のほんの一部分だ、というおもいはきえない。なんというか、すでに滅びた国の法律書でもよんでいるような、とりとめにない気分になってしまうのである。』 演技や、俳優という仕事に関する文章も、とても面白い。 『いや、むしろ僕は自分の、 「人間観察のセンスのなさ」 には自信をもっている。現場に入るまえの思考はほとんど無駄、といってもいいくらいだ』 『正直にいうけれど、役のきもちなんてやってみないとわからない。もっと正直にいえば、わからないままやっていることも僕にはある。そのヒトがどんなヒトなのか、そう簡単にわかるわけがないのだ(と僕はおもう)。』 『ある程度キャリアを重ねていけば、別に言わなくてもまわりが俳優だと認めてくれるけれど、ただの大学生が俳優として見てもらうには、「僕は俳優です!」という幻想を、お客さんにも自分にも押し付ける必要があった。』 『もしかすると、俳優としてすごす時間のなかで一番しあわせなのは、出演がきまってから台本がとどくまでの、すこし「てもちぶさた」な時間かもしれない、などとおもうことがある』 『「あの演技よかったよ」といわれておこる役者はあまりいないだろうが、 「え、あの作品にでていたの?」 とビックリされるのも僕は嬉しい。(中略) 以前、六歳の女の子から、 「さかいさんは演技がうまいですね」というお手紙をいただいたことがある。ほめられたのはうれしかったが、演技だということが完全にばれているわけで、なんだか複雑だった』 文章を読んでみて伝わると思うのだけど、堺雅人の文章は漢字が少ない。どれぐらい意図してそうしているのかわからないけど、ひらがなの割合がとても多い文章は、全体的に柔らかさを醸し出すように思う。ことばの一つ一つが優しい気がするのだ。それに、漢字にしてしまうと「はっきりと意味が定着してしまう」感じが出るような気がするのだけど、それをひらがなのままにしておくと、「未分化のままの、これから何かになるかもしれないもの」という印象も受ける。「このことばでは自分の言いたいことは伝わらないのだけど、でもこれしか仕方ない」という、堺雅人なりの「諦め」が、この漢字の少なさに繋がっているのかもしれない、などと勝手なことを思う。 僕は、「俳優・堺雅人」のことはほとんど知りません。演技をしている場面を、恐らくみたことはないでしょう。どんな形であれ、堺雅人に触れるのは、本書が初なのではないかと思います。それでも非常に楽しめます。それは、「俳優・堺雅人」という部分に寄りかかった文章ではなく、「人間・堺雅人」としてことばと格闘した、その歴史の積み重ねだからなのかもしれない、と思います。読んでいると、何故かゆったりとした時間が流れるような錯覚になれる作品でもあります。是非読んでみて下さい。

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