宇喜多の楽土

文春文庫

木下 昌輝

2021年1月4日

文藝春秋

847円(税込)

小説・エッセイ / 文庫

父・直家の跡を継いだ宇喜多秀家は、秀吉の寵愛を受け豊臣政権の中枢となる。しかし秀吉没後は、派閥争いや家中騒動に苦しみ、西軍の主力として臨んだ関ヶ原の戦いで壊滅する。敗走する秀家だが、彼が目指したのは、武士としては失格の場所だったー。心優しき秀才が、嵐世に刻んだ覚悟とは?傑作歴史長編。

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戦国乱世の過酷な環境で、楽土建設の夢のために、歯を食いしばって前に進もうとした若き俊才

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3.4 2021年01月15日

宇喜多直家の嫡男、宇喜多秀家の前半生を描いた作品。 「戦国の貴公子」と呼ばれた英邁なる人物の知られざる苦悩と、果てなき楽土建設の夢を描く。作者:木下昌輝による「宇喜多の捨て嫁」と併読すると、「貝あわせ」「難き道を行け」などの文言が父直家の言葉として出てきており、続編として読み込んでみても面白い。 大国に挟まれた地理的な制約、自分の意に従わない家臣、豊臣政権下での派閥争い。そして、父より引き継いだ楽土建設の夢。戦国の古強者に囲まれた豊臣政権下でひときわ若く、民への情愛い満ちた貴公子の、知られざる苦悩とは。 ▼概要 あらすじ: 父・直家の後を継いだ宇喜多秀家は、秀吉の寵愛を受け豊臣政権の中枢となる。しかし秀吉没後は、派閥争いや家中騒動に苦しみ、西軍の主力として臨んだ関ケ原の戦いで壊滅する。敗走する秀家だが、彼が目指したのは、武士としては失格の場所だったー。心優しき俊才が、 嵐世に刻んだ覚悟とは? 本作は戦国の嵐が吹きすさぶシーンから始まる。父直家が死んだのは1582(天正10)年1月。そう、天下人織田信長が死ぬ本能寺の変があり、台頭した明智光秀が死んだ山崎の戦いがあった年だ。この時、宇喜多家は、同じく大国であった羽柴の傘下大名として、西の大国毛利と接していた。そんな状況下で宇喜多の名跡を継いだのが宇喜多秀家であった。 宇喜多秀家が宇喜多家当主として最初に行う大仕事。羽柴秀吉への挨拶からこの物語は始まる。 一章 嵐世の唄 主な時代1582(天正10)年〜1585(天正13)年 豪姫を交えた羽柴秀吉との挨拶を無事に終えた秀家は、その晩に見る夢の中で、父直家と対話する。過去の対話にあたる父とエピソードこそが、秀家の生き方を決めるのだ。 P39「貝あわせとともに、わしは八郎の楽土を見守ろう。心して歩め。あるいは、わしが辿った以上に難き道かもしれぬがな。」 この言葉を胸に、八郎は楽土建設のために励んでいく。目下の課題は、毛利との境目争いであった。毛利との境目争いに対する秘策は、所領安堵上に秀吉の花押を利用することであった。これは、同時に秀家の家臣に対する影響力を弱めることもあるが… それでも秀家は、P96「民を安んじる楽土を建設するーそう八郎は父に誓った。」 彼は、宇喜多家の当主としての地位の確保、そして何よりも楽土建設のために、手段を択ばない強い覚悟を持ったのだった。 二章 豊家落陽 主な時代1592(天正20)年〜1598(慶長3)年 宇喜多家の独立と領土維持を勝ち取った秀家は、朝鮮出兵の負担に耐えながら、宇喜多家の中央集権化を推し進めようとする。秀吉の力を借りて領土を安堵した家臣たちに対し、領土から引きはがし、俸給によって召し抱える形式へ移行する必要があった。しかし、若年の秀家に対し、家臣たちは父直家を支えてきた暦年の強者どもだった。若き秀家が難航する家中の調整に対して、秀家はまたもや秀吉の力を借り、家中を治めることに成功する。ただ、それは再び、秀吉の力なくば秀家に家中を統率する力がないこと露呈したも同じであった。 P134「家老らの反対と己の器量不足、宇喜多左京から向けられた殺意。あまりにも前途は多難だ。」 大納言秀長の死、豊臣一門衆として信仰のあった秀次らの死が過ぎ、二度目の朝鮮出兵を迎えていた秀家にあまりにも非情な知らせが到着する。 P174「―太閤殿下、ご重篤。」 朝鮮出兵による負担の増加、きなくさい家中、裏から手をまわしている徳川…。 秀吉の朱印がどうしても必要だった秀家に、三成が取引を持ち掛ける。 P183「宇喜多家五十万石で、関東二百五十万石を相手にせよ、と。」 しかし、無情にも朱印を得られないまま、秀吉は逝く。第二章最後のシーンは、秀吉の死により、秀家の、宇喜多家の何かが壊れいくさまが、無常にかつ美しく表現されている。 P188「望んでいた秀吉の印は、とうとう押されることはなかった。躊躇なくそれを引きさく。紙片が伏見の空に舞った。風が吹いて、あっという間に遠くへ消えていく。」 三章 宇喜多家崩壊 主な時代1598(慶長3)年~1600(慶長5)年 秀吉没後、影響力を高めていく家康は、豊臣政権の派閥争いに大きな影を落としていく。狡猾な家康は、五十万石を領する宇喜多家にも狙いをつけていた。豊臣政権での派閥争い、徳川による宇喜多家の家中騒動。本省のテーマに「流れ」という言葉が出てくるが、これに抗いきれず、徳川に翻弄される秀家の姿がよく描かれる。 そんな中でも、秀家には決してあきらめられない楽土建設の夢があった。それを思い出してくれたのは、父から引き継いだ干拓地の民たちであった。 P242「父の直家もまた、流れに抗い続けた人生であったではないか。その最たるものが、この干拓地だ。家老たちが軍船や砦を造れと進言するときに干拓を推しすすめ、後をつなぐ秀家の手に渡るように取りはからってくれた。もし、あのとき、父が流れに抗っていなければ、目の前には荒涼とした海が広がっていただろう。」 ここで、思いを新たに、秀家は徳川との決戦に向けて覚悟を定めていくのであった。 四章 関ヶ原 主な時代1600(慶長5)年 ついに秀家が歴史の表舞台に名を遺す最後の戦いがやってきた。仲睦まじい豪姫は、出陣前の秀家にこう声をかける。 P295「豪も、いつの日か八郎様と平穏な暮らしを送りたいと思っていました。」 天下分け目の合戦前、ついに秀家と豪姫はその互いの想いを打ち明けあう。こんな世で泣ければと、この二人は何度思いあったことであろうか。しかし、時の流れは、秀家に覚悟をさせ、関ケ原の戦いへ進んでいく。 なお、注記してきたいのが、この作中で描かれる関ケ原は、いわゆる通説で描かれる関ケ原とは全く異なっている。通説の関ケ原とは、井伊直政隊の鉄砲打討ち掛けから始まり、午後に入って小早川秀秋の裏切りによって、決着がつくといったものだ。 しかし、この関ケ原の様相はだいぶ異なる。何せ、P320「圧倒的強者が、弱者にとどめを刺す掃討戦である。」と表記されるほど、一方的な戦であったと描かれるのだ。この辺りの関ケ原は、他であまり見たことのない雰囲気のため、ぜひ味わっていただきたい。 関ケ原からの敗走の中で、個人的に一番印象的に描かれる場面がこれだ。 P332「覚悟を、血と一緒に呑みこんだ。動かぬ足に手をやり、無理矢理に前へと動かす。骸たちで普請されたかのような道を、歯を食いしばり進む。」 これは、関ケ原から敗走した秀家の姿だけを切り取った描写だけではない気がした。父の他界とともに幼少の身で託された備前五十万石。大国毛利との境目争いに豊臣政権下の派閥争い、家中騒動に秀吉への奉公。わずか11歳幼少ながらも、自身の知恵と才覚で必死に大名として生き残ってきた秀家の短き人生がここに凝縮されているのではないだろうか。 そして、逃避行の末、秀家は妻豪姫の待つ屋敷へと帰り着く。 P360「私は…生き延びてしまった。目をきつくつむる。豪姫の体の中に顔を埋めた。柔らかい手が、頭に添えられる。なじるでもなく、慰めるでもない。無言で、豪姫が秀家の顔に手をそえてくれている。」 終章 最果ての楽土 主な時代1607(慶長12)年 関ケ原の後、助命を勝ち取った秀家は、八丈島への配流される。配流先の八丈島で、静かな余生を送っていた秀家であったが、彼のもとに豪姫の生家前田家から、大名復帰の誘いが舞い込んでくる。しかし、彼が選んだ答えは、八丈島に残ることであった。 豪姫から届いた貝あわせの貝を見た秀家の覚悟とは。最後に残した言葉の真意とは。 P376「腑抜けの大将か。知らず知らずのうちに、秀家はつぶやいていた。最初からそのように生きることができれば、どれほど楽だったろうか。」 終章は10ページ強しかなく、第四章までの濃い内容と打って変わって、とても量が少ない。そのためか、八丈島に流れ着いた秀家の感情や、大名復帰の誘いをけった理由などが、明確に描かれず、人によってはもやもやと終わる印象を受ける。 しかし、ここは、こここそは、読者の想像にゆだねられるべきところなのかもしれない。 個人的には、干拓地の楽土などの表現から、海や風にまつわる表現が多く、本作最後の一行もそういった表現で締めくくられる。つまり、秀家は、戦国や政治などの本国とは離れた孤島で、小さな楽土を築こうとしたのではないだろうか。 戦国の世に翻弄されながらも、前を向き、戦い続けた勇敢な武将の物語である。

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