依存(いぞん)

幻冬舎文庫

西澤保彦

2003年10月31日

幻冬舎

880円(税込)

小説・エッセイ / 文庫

安槻大に通う千暁ら仲間七人は白井教授宅に招かれ、そこで初めて教授が最近、長年連れ添った妻と離婚し、再婚したことを知る。新妻はまだ三十代で若々しく妖しい魅力をたたえていた。彼女を見て千暁は青ざめた。「あの人は、ぼくの実の母なんだ。ぼくには彼女に殺された双子の兄がいた」衝撃の告白で幕を開ける、容赦なき愛と欲望の犯罪劇。

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誰もが通る道

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4.4 2021年09月18日

記憶の意図的改ざん】 人間て、自分が辛い目に遭うと、他人も同じ目に遭わあさないと気が済まなんだね。 ほんとうに。 こんな辛い思いをするのは世界でひとりでたくさんだ、 他の人には同じ目に遭って欲しくない、 なんて思わないんだよね、人間て、絶対に。 自分だけがこんな思いをしなきゃいけないんだ、 みんなもこの苦労を思い知れ、 そう思うんだ。 親子のあいだでも例外じゃない。 子どもには自分と同じ苦労を味わってほしくない。 それはたぶん本心なんだろう。 でもそれは嘘だ。 「自分が若い頃は大変だったから、お前ももう少し苦労したらどうだ」 主観的にどう思っていようが、実態はそういうものだ。 それはなぜか。 自分が嘗め尽くした辛酸を、子どもが知らずに終わるのが許せない。 子どもの幸福よりも、己の怨念の方を優先してしまう。 人間、誰しも辛い経験というものに必ず遭遇する。 生きてゆく以上は苦しみをその都度乗り越えていかなければならない。 しかしあまりにも過重だと、肝心の体験そのものを忘却することがある。 「そんな辛い出来事は自分には起こらなかった」 という”物語”に逃げ込むことによって苦しみの存在を否定する。 体験を背負うこと自体を拒絶する一種の自己欺瞞である。 もしくは、前後関係を捻じ曲げて記憶することで負担を軽減する。 精神分析で言うところの自我防衛規制である。 【依存症】 依存症というものを、ご存じだろうか。 例えば、アルコール依存症とか、買い物依存症とか。 酒好きが嵩じた結果、買い物好きが嵩じた結果、 ある種の中毒状態になると誤解されているが、じつはちょっと違う。 アルコール依存症の場合、本人は決して飲酒を楽しんでいるのではない。 単に飲まないと不安になるのだ。 不安が辛抱できなくて、飲むと、とりあえず安心する。 本当は安心するわけではなく、そう錯覚するだけなのだけれども。 飲むことは、楽しむどころか体に様々な障害が出て苦痛であり、 周囲の人間を巻き込んで家庭を崩壊することが、 本人がいちばん、わかりすぎるほどわかっているのだ。 それなのに飲んでしまう。 買い物依存症も、本人は買い物そのものを楽しんでいるわけではない。 買い物をしないと、どうにも不安に襲われ、とりあえず物を買う。 後で途方もない額の請求書が来るのがわかっているのに、 やめなれない。 自己破産したり、周囲の人を巻き込んで破滅するかもしれない、 本人がいちばん、わかりすぎるほどわかっている。 それなのにやめられない。 不安に駆られ、気がつくとデパートに走っている。 決して、やりたいと思ってやっているわけではないのだ。 むしろ本人たちは、飲みたくない、買いたくない、 そう、切実に思っている。願っている。 精神的に不安定になってしまう状態を本人はどうしようもできない。 他に自分を安心させるすべが思い当たらない。 不安を解消させるため、手を出す。結果的にさらなる苦しみを生むことも理屈ではわかっているのに。 手を出した後で、後悔や罪悪感が、さらなる自我の不安定を引き起こす。 ますます自分や家族を追い詰める。 この悪循環が、依存症の恐ろしいところだ。 それに加えて、乖離症状というものを背負い込んでいる人もいる。いわゆる乖離性同一性障害と呼ばれるものだ。虐待によって精神的に耐えがたい苦痛を受けた子供は、乖離的反応によって己の苦しみを和らげようとします。多重人格もその一つだと言われています。精神的苦痛を、自分のそれでなく、誰か別の人格の体験として認識することによって、一種の心理的健忘に逃げ込む。そこまでしないといけないほど、虐待によって子供たちが背負う苦痛は深刻だ。 多重人格ではなく、心理的健忘によって乖離された虐待体験が、悪夢や幻覚として再体験される症状もある。その悪夢や幻覚により虐待を追体験するという、乖離症状がさらに本人に追い込みをかけ、離脱症状という禁断症状のようなものがでてくる。軽いケースでは、震えや発汗、重くなると、不整脈や幻覚、見当識障害、などの症状に襲われる。追体験による苦痛を忘れようとするあまり、一時的な安心を求めるうちに、なんらかの中毒になってしまうのだ。 卵が先か鶏が先か。 乖離症状と依存症は、どちらがさきともいえない。 この物語では、誰もがなにかに依存しており、それが重度なのか、本人が気がつかないレベルだったり、様々だ。大学生の飲み会の席で交わされる会話の中で、話しているうちに自分の話の矛盾点に気がついたり、忘れていた話の続きを思い出したり。小さいころに、自己防御のために記憶を改ざんしていたり忘却していたりしていたことが、大人になって、あの時本当はこんなことが自分の身に降りかかっていたんだ、と仲間に話すことで思い出したりします。そして、本当の自分はどっちなのか、わからなくなって、混乱してしまう子や、妙に納得がいく子、やっぱり認められない子、克服できる子、できない子、様々だ。 周りの環境も影響するのだろう。幼いころの虐待は目に見えなくても心に大きな傷を残します。決して癒えない傷を。本人が気がつかずに一生過ごせる場合もありますし、後遺障害で一生苦しむ子もいます。離脱症状がどれだけ苦しいか、体験した人でないと分からないかもしれませんが、本当に死んでしまうかもしれない、と見ていて思うほど、辛いものなのです。

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