銀行籠城

幻冬舎文庫

新堂冬樹

2007年10月31日

幻冬舎

586円(税込)

小説・エッセイ

うだるような猛暑の七月十五日午後三時、あさがお銀行中野支店で惨劇は起こった。閉店寸前の行内に押し入った男が、男性客と案内係を次々に射殺。人質にとった行員と客を全裸にし籠城した。何ら具体的な要求をせず、阿鼻叫喚の行内で残虐な行為を繰り返す男。その真の目的とは何なのか?現代社会の歪みを描ききったクライムノベルの最高傑作。

本棚に登録&レビュー

みんなの評価(2

starstar 2

読みたい

0

未読

0

読書中

0

既読

12

未指定

8

-- 2019年12月16日

新堂冬樹「銀行籠城」

人同士の繋がりというのは、細く脆いものなのだろう。それはもう、僕は中学生くらいの時からそう思うようにしている。 中学生の頃だと思う。僕は、世界中の人間から嫌われている、そう考えて生きていこうと決めた。 まあ、そのきっかけになるような特別な何かがあったわけではない。いじめられていたわけでも、特別何かに悩んでいたわけでもない。ただ、モヤモヤとした形の定まらない何かが内側にあって、それをちゃんとした形に落ち着かせるには、そう考える他ななかった、と今でも思っている。 その考えは、今でも健在で、僕は基本的な発想として、あらゆる人に嫌われている、と考えるようにしている。その方が、楽なのだ。 人の善意や善行を期待することとは、勇気がいることだし、疲れる。きっとこうだろう、こうしてくれるに違いない。そんな幻想はすぐに崩れるし、期待が大きければ大きいほどもろくも崩れるものだ。 結局、自分が一番可愛いということだ。 僕自身、死への恐怖はそこまで強くはない。いやもちろん、あるにはある。しかし、痛みもなく一瞬で殺してくれるなら、その方がいいと考えてしまう人間だ。 むしろ僕の場合、死なないけど半端ない苦痛を継続的に与えられるとか、自分のせいで誰かが迷惑を被るとか、そういう状況にはちょっと耐えられない。自分が死ぬこと以上に、耐えられないだろう。 だから、本作のような状況におかれた時、さっさと殺されてしまうのが楽だよな、なんて考えてしまうかもしれない。それが僕的に、自分が一番可愛い、ということの意味だ。 兄弟愛、家族愛、隣人愛。そうした、自分以外へ向ける愛というものを殊更強く強調したがる世の中だけど、それははっきり言って幻想でしかないだろう。誰だって、一皮向けばそこには悪意がある。他人への。剥き出しではない悪意が潜んでいる。普通の人生を歩んでいる限り、その悪意が溢れ出ることはない。しかし、何かをきっかけにして、人間はいくらでも残虐になれる。それが、自分愛というものである。 戦争だって、恐らくその論理で継続されているはずだ。誰だって、戦争をしたいわけじゃない。でも、相手を殺さなければ自分が死んでしまう。自分が引き金を引かなかったせいで、誰かが死んでしまうかもしれない。そんな状況の中でなら、人を殺すことを正当化することは容易いだろう。人間なんて、そんなものなのだ。 人間は、底知れぬ悪意を隠す手段を身に付けることで、社会を築いたといってもいいだろう。それは、社会というものをきちんと継続させようとするためには悪いことではないかもしれない。剥き出しの悪意に満ち溢れた社会など、うんざりだ。 しかし一方で、誰もが悪意を仮面で隠している社会というのも不気味なものである。もちろん、程度は人それぞれ違うだろうし、ほとんど悪意というものを持たない人もいるかもしれない。 しかし、仮面越しでは誰もが条件は同じだ。その不透明性が、圧縮された空気のように力を持ち、いずれどこかにゆがみを生じさせるのだろう。そんな社会も、はっきり言ってうんざりだ。 僕は、僕自身の悪意には比較的ちゃんと気づいている自覚がある。だからこそ余計に、それを周囲に敷衍しなくてはならないのが怖い。自分だってこうなのだから、という目で、他人の仮面を透かし見ようとしているのである。 もうそんな自分の存在すら面倒臭く感じられる。だからこそ僕は、誰もが圧倒的な悪意を抱えていて、その悪意は自分に向いているのだ、と考えるようにしているのである。そうすれば、相手の仮面を透かし見ようとする自分の存在を意識せずに済む。相手の悪意を推し量ろうと気苦労することもなくなる。 誰かの悪意は、誰かを圧倒する。あなたの悪意は、誰を圧倒しますか? そろそろ内容に入ろうと思います。 五十嵐は、完璧に準備を整えて、ある銀行の前にいる。時刻は、午後三時。シャッターが下りはじめると同時に、店内に入った。 一ヶ月ほぼ毎日通っただけあって、顔を知られている。行員は、自分の存在に気が付いた。五十嵐は、荷物から銃を取り出した。 銀行内にいたのは、行員と客を含めて38人。沸きあがる悲鳴と広がる動揺。しかし、まだ彼らは楽観していたと言える。五十嵐という男の恐ろしさを。 五十嵐は、逃げようとしたサラリーマンの頭を眉一つ動かさずに撃ち抜いた。全員を壁際に立たせ、二階の行員を呼ぶが、時間に1秒遅れたという理由で人質の一人が射殺される。 全員に服を脱ぐように命じ、圧倒的な支配力で全員を奴隷とした。初めこそ立ち向かっていた者も、あまりにも冷酷無比なこの犯罪者に立ち向かうのは諦めていく。 五十嵐は、銀行強盗ではない。かといって何か要求を出したかと言えばそうでもない。ゲームを愉しむようにして人を殺し、警察を翻弄し続けるだけ。 五十嵐の目的は一体なんなのか。警察は、この事件を解決に導くことができるのか。 というような話です。 かなり面白かったですね。新堂冬樹らしい作品だな、と思いました。 まず、ここまで冷酷で冷静な犯罪者というのもなかなかいないだろうな、という感じです。躊躇することなく人を殺すことができる、感情的にではなく計画的に戦略的に人を殺すことができるという点で、五十嵐という男は果てしなく恐ろしい男です。 犯罪小説の場合、犯人の側に何らかのつけいる隙やミスがあったりして、そういうところから牙城が崩されていくのだけど、本作の場合、その辺りのことは完璧です。つまり、隙がない。小説では、すべて犯罪者の思惑通りにはいかないぞ、という部分で読者を惹き付けるものだけど、本作では、五十嵐という男はすべてを思惑通りに運んでいきます。ミスもなく、ある意味で、五十嵐の完全な犯罪だと言えるかもしれません。それが、本作の特徴だと思うし、面白いところだなとも思います。 しかし、自分が実際中にいたら…と思うと、ちょっと恐ろしいですね。何ができるだろう、と考えてしまいます。誰も救えず、自分のことしか考えられない、という状態には陥りたくないけど、でも周囲を救おうとすれば自分が被害を被ってしまう状況にあって、一体何ができるだろうか。他人への愛というものが、どれだけ脆いかということを思い知らされるだけだろうな、という気がします。 逆に、自分が五十嵐の立場だったらどこまでできるだろうかな、と考えてみるけど、こっちは結構いけそうな気がするんですよね。つまり、五十嵐と同じ立場に自分が立っているとしたら、僕は五十嵐と同じ事をすることはできなくはないだろう、ということです。あっさりと人の命を奪うことも、そこにいる人間を奴隷にするためのあらゆる戦略も、きっとできるだろうな、という気がしました。別に、五十嵐が特別異常で狂っているという風には思えませんね。 あとこういう作品を読むといつも思うのが、マスコミについてですよね。なんていうか、前にも「牛乳アンタッチャブル」の感想でも書いたけど、とにかく僕は、犯罪の被害者だとか加害者だとかに群がるマスコミというのが大嫌いで、もうアホなんじゃないか、という気すらします。きっと、頭がおかしいんだと僕は思いますけど。もう少し、まともな思考はできないものか、と思ってしまいます。大丈夫か?日本のマスコミは。モラルが一番欠如していそうな気もします。もうなんとかしてください。あぁ、マスコミなんか消えればいいのに。 ラスト、五十嵐の目論見が分かるようになる場面。まあ、分かりやすい物語運びだとは思うけど、そのシンプルさが逆に、物語を締めているように思います。五十嵐の残虐さも一層浮き出るし。まあ、結末もああだけど、まあそうだろうな、という感じですね。 短い話だし、これは読んだら結構いろいろと考えるんじゃないかな、という気がします。割とオススメです。読んでみてください。

全部を表示

みんなのレビュー

レビューはありません

Google Play で手に入れよう
Google Play で手に入れよう
キーワードは2文字以上で検索してください