ドストエフスキ-全集(第18巻)

フョ-ドル・ミハイロヴィチ・ドストエフス / 小沼文彦

1983年12月31日

筑摩書房

8,330円(税込)

人文・思想・社会

本棚に登録&レビュー

みんなの評価(0

--

読みたい

0

未読

1

読書中

0

既読

0

未指定

3

書店員レビュー(0)
書店員レビュー一覧

みんなのレビュー (1)

Readeeユーザー

(無題)

-- 2019年11月07日

カラマーゾフの兄弟 創作ノート 2ちゃんねるの掲示板で創価学会員が無宗教の私の考えに少し近いことを言っていて毎日ここのところ面白い。 「根幹的体験が大切。 ドストエフスキーというのはな、哲学者じゃないんだ! むしろ「感情」なんだ。人間の熱い体験や感情を、文学として表出した芸術なんだ! 」 この辺りが。 特に今の自分は良心に非常に苦しんでおり根幹的体験の一言にはいたく共感する。確かに体験の有無で(特に生死)まるで見る景色が違うのだから。 以前、2ちゃんに神=良心と置き換えて読めば読みやすいと書いたところ、それは違うと反論が来ていた。 置き換えるとドストエフスキーが読みやすいと言っただけなのだけれど、しかもどう違うのかについてはなんら言及はなかった。 ロシア人ではないし、ロシア正教のことは正直わからない。日本人なのに日本の天皇制についても曖昧な概念しか持っていないのだから。 ドストエフスキーがローマ・カトリックのシステムを批判していることはわかるが(自分もカトリック教会に多少関わり、面倒な思いをした事も大きい。儀式などにのみ勿体振り、形式のみを尊重。マリアやキリストどころか神そのものもそっちのけな印象を今となっては持っている) かと言ってロシア正教がドストエフスキーのテーマであったとは思えない。 ユダヤ人についても多く言及しているし、忘れてしまったがイスラムについても言及があった。 言及がある以上、ないがしろにしてはおらず トルストイと重なるが国境宗教を超えた善美みたいなものを目指していたのではないだろうか。 以前から私はドストエフスキー自身が、物語の創作により世を動かし神になりたかった男なのではないかと疑っている ノート 謙虚さは偉大なり 慈悲の心 傲慢ゆえの憎悪 全ての人とあらゆるものに対して罪がある 誰もがその気になれば楽園を作ることができる

全部を表示
Google Play で手に入れよう
Google Play で手に入れよう
キーワードは1文字以上で検索してください