葬式仏教の誕生
中世の仏教革命
平凡社新書
松尾剛次
2011年8月31日
平凡社
770円(税込)
人文・思想・社会 / 新書
日本では中世まで、亡くなった人は、河原や浜、道路わきの溝などに捨てられていた。死は穢れとして、忌み避けられていたからだ。そんななか、人々が弔いを託したのが仏教である。葬式と、墓石を建てる習俗の起源を探りながら、日本人が仏教に求めたことと、仏教が果たした意義を探る。
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日本の仏教は世界の仏教徒は違い、葬式を執り行う。それどころか葬式仏教と揶揄されるほど、日本式仏教の中心的業務。なぜそんなことになったのか?というおはなし。 面白かったのは、日本には「穢れ」という概念がある、というのは知っていたがその程度が、法律のようなもので規定されていたらしい。人の死体にふれたら「30日間」の謹慎、火事は「7日間」、肉食は「3日間」(鶏は除く)。なんというシステマチックな概念。 白骨は穢れとして認識されていなかったらしい。なんとなく感覚的にはわかるけどおもしろい。 しかも、その「穢れ」は感染することになっている。死んだ人にさわったら、そのひとも「穢れ」る。なんか、子供の「えんがちょ!」とかにつながるものがあるよね。バリアとか。日本人の純粋な発想なのだろう。 そして、人が死ねば、忌むべきものとして、埋葬せずはらっぱとかにすてにいったらしい。ゆえに、鎌倉以前の古式仏教では、穢れにふれると、神事に差し障りが出るということで、僧侶が葬式をやることはなかった。 それがかわったのは、鎌倉以降。 一言でいうと、葬式仏教になったのは、鎌倉新仏教(法然とか親鸞とか)が原因。それまでの僧たちが忌避していた死に対して、組織として鎌倉新仏教が取り組んだ。穢れではなく仏として死体を扱い始めた。 なぜそんなことができたのかって、教えのおかげだ。浄土真宗では、死ねばすなわち仏となるという概念なのだから、穢れではない、ということにできたんですね。いったもんがちだな。そして今でも続く日本の法事的システムなどを整えて言った。 そう、日本の三回忌、七回忌など葬式システムは、日本オリジナル。中国やインドに由来があるものではない。創作なのです。 念仏が、六道輪廻で苦しみ続ける衆生を救うために生まれたシステムなであり、否定されるべきものでないのならば、同じ出自である葬式仏教も否定されるべきではないのだろう。お金と時間をかけて修行したもののみが、幸せになれる、というのは不公平であり、簡単なことをすればどんな人間でも幸せになれますよというシステム。それが現在まで続いている。 まぁ、仏教本来の教義的には胡散臭い部分もあるのではないかとかおもってしまうが、死して穢れとして打ち捨てられるより、仏になったと見なして手厚く皆で葬式をあげるほうが、残された人にとってはるかによいことに思える。 現代、お金と時間をかけて頭がよくなったもののみが幸せになり、お金と時間をかけれなかった頭が悪いものは幸せになれなくてもしょうがない、みたいな感じが普通。そこを救済するシステムとして日本的仏教が存在したのであれば、現代の宗教というものもそこを救済すべく、布教活動に勤しむべきじゃなかろうか。 お金をかけて戒名を買うなどのビジネスは、ありだとおもうし、否定もしないが。
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(無題)
お寺の数とコンビニの数とをくらべたらどちらが多いだろうか。実はお寺の方が多いのである。普段接触が無いお寺の数が、そんなに多いことに驚かれることだろう。そんなに多くの寺が経営上成り立っているのである。そこで思いうかぶのが葬儀の際のお布施や戒名料である。日本の仏教がこのように、葬式と切っても切れないようになったのは、鎌倉新仏教の成立を待ってからである。本書はその経緯と歴史を審らかに述べている。
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