犬の伊勢参り

平凡社新書

仁科邦男

2013年3月31日

平凡社

880円(税込)

人文・思想・社会 / 新書

明和八年四月、犬が突如、単独で伊勢参りを始めた。以来、約百年にわたって、伊勢参りする犬の目撃談が数多く残されている。犬はなぜ伊勢参りを始めたのか。どのようにしてお参りし、国元へ帰ったのか?そしてなぜ明治になって、伊勢にむかうことをやめたのか?事実は小説より奇なり。ヒトとイヌの不思議な物語の謎を探る。

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とも

(無題)

-- 2018年01月22日

犬が人間に噛み付くのは当たり前、人が犬に噛み付けばニュースになる。鵜の目鷹の目でネタを探す新聞記者にとって、資質の一番は好奇心、いやもっと下賎な野次馬根性なのかも知れない。新聞記者出身の著者が本書を執筆したキッカケは「犬が伊勢神宮の参拝をする」という伝聞が本当かどうか、との単純な疑問であった。犬に信仰心があるわけがないのだから、それは嘘だと合理的に判断する科学性と、実際に見たという話の狭間を埋めるのは、史料しかないと膨大な史料に当る著者の執念が一冊の図書に結実した。本書によって犬の伊勢参りの実態が解明されたからといって、何かが便利になったり世の中が変わるわけではない。しかしながら、著者の犬への愛情が歴史の一コマを紐解くことによって読者の心に染み渡るのは確実である。 犬はなぜ伊勢参りを始めたのか。飼い主に連れられていくわけでもないのに、どのようにして伊勢神宮にお参りし、どのように国元に帰って行ったのか。この犬の行動の背景には何があるのか。これが本書執筆の動機である。伊勢神宮は我が国最古の家系・天皇家の祖先神・天照大神を祀る社である事は言うまでもない。この伊勢神宮信仰が江戸時代に民間にどのように受け入れられていたかを理解することが、犬の伊勢参りを現実にあったこととして受け入れる前提となる。封建社会では、あらゆる場面で自由が制限されていた。例えば、移動の自由。庶民が自由に移動することが許されていたのは、信仰に基づく行動、すなわち社寺への参詣のみであった。この頃の庶民の心の中を覗くことが許されるなら、信仰心が2割、残り8割は遊興心であったのではなかろうか。その証拠といっては語弊があるかもしれないが、伊勢の古市は江戸の吉原、京都の島原と並び称されるほどの遊郭であった。聖域の静寂と享楽の里の喧騒、厳粛と猥雑が同居する様は、現代の我々からすれば信じられないが、一方ではエネルギーに満ちた一帯であったのだろう。ともあれ、そんな伊勢詣でが当時の庶民の夢であったことは、現代の私たちが海外旅行に抱く憧れ以上のものがあったのは間違いないところだ。 伊勢詣でに対する人々の憧れとともに、私たちが見逃してならないのが、人と犬との関わりである。狐は人に憑き、狸は化かし、猫は祟る、そんな時代の人と犬の関係は、家畜やペットという存在からは程遠いものであった。現代の私たちが所有しない里犬という概念を理解する必要がある。江戸時代の犬は個人が飼っているのではなく、町や村が放し飼いで育てていたのである。食べ物と眠るところがあればどこへでも行くのが里犬である。そんな犬を見て誰かが、この犬は伊勢参りの犬ではないかと思った瞬間、犬の伊勢参りが始まるのである。宿場から宿場への宿場送りの制度が機能していた時代であったことも犬にとっては幸いした。 一方、伊勢参りの犬の多くが、白い犬であったという点も見過ごせない。古来より白犬には霊力があると言われてきた。日本武尊は信濃で道に迷った時、白犬に導かれて美濃に出たとされてきたし、平安時代、関白・藤原道長は法成寺を建立し、白い犬をお供にお参りした。古来白い犬に霊力を見出してきた日本人にとって、白い犬が伊勢の方向へ歩いているだけで、「この犬は伊勢参りしようとしているのではないか」と思い込んでしまうことも起きかねなかったのだ。犬たちは周りの人たちが期待しているように行動すれば、やがてうまいものにありつけることも知っていたと思われる。それを「お参り」という行為に結びつけて解釈したのは人間なのである。犬の伊勢参りは人の心の生み出した産物であったのだと著者は言う。 狼から進化した犬は人間と共存することを選択し、人間から友と呼ばれるまでの信頼を勝ち取った唯一の存在である。今では愛玩対象でしかなくなった現代の犬と江戸時代の里犬を見較べて、愛犬家はどう感じるのだろうか。

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